第419話 とある堕魂者の話
将来を有望視されていた。
能力も、人望も、他人から見て羨まれるほどに恵まれていた。
だが私にとってそんなものは大した価値ではない。私にとって大切なのは家族……妹の存在だった。
『姉さんはすごいね! 私の誇りだよっ!』
妹のレイラはいつも私を慕ってくれた。彼女がいたから私は頑張れた。
一族を捨て、放蕩の旅に出た両親を持つ私達に当初、村の人たちは冷ややかな視線を向けていたが、私が村に貢献すればするほど彼らの目は変わっていった。
──私達は何一つ変わっていないというのに、だ。
『今日も獲物を仕留めて来たんだね! 料理は私に任せて! 得意だから!』
私が守りたかったのは妹だけだった。その、はずだった……
『次の村長はライラで決まりだな』
『お前の腕には期待しているぞ』
『今度何かお礼の品を持っていくわね』
誰も彼もが私を認め、尊重してくれた。
その環境が心地よくて、いつしか私はそれを当たり前だと思うようになっていった。自分が特別な存在だと、そう思うようになっていたのだ。
だから……私は妹の異変に気付けなかった。
『姉さんは本当にすごいね……』
最後にはお前も村のために尽力しろ、なんて、昔の私からは想像もできないことを言っていた。それに気づいたのはずっと後になってからだが。
変わっていないと信じていた自分が変わってしまったことに気付いたのは、あの運命の日……妹が死んだ日のことだった。
その日の深夜、妹が寝床にいないことに気付いた私はレイラの姿を探して森に飛び込んだ。その時から、何か嫌な予感を私は感じていたのだ。
探知を使って探せば、すぐに彼女は見つかった。
だが、ようやく見つけた妹はなぜか人族の男と一緒にいた。
『これからは人族の時代がやってくる。長耳族が生き残るにはこの方法しかない。手を貸したお前と、お前の家族には厚遇を約束しよう』
その男の名がヒューゴだということも、当時の私は知らなかった。
『……分かりました』
理解できたのは、妹が人族の男と手を組もうとしていることだけ。
『でも……一つだけ』
『なんだ?』
それまで自信なく俯いていた妹がそこでようやく顔をあげた。
『私を……一番にしてください』
私からはその表情をうかがい知ることはできなかったが、きっとその顔は……私が見たことがないほどに醜く歪んでいたことだろう。
『姉のことは構いませんから、私を一番に優遇してください』
弓を構えたのは、本当に反射的な行動だった。
実利を思えばもっと話を聞いておくべきだったが、その時の私にはそんなことを考える余裕がなかった。すぐにでもその会話を終わらせてしまいたかったから。
そして、その時の私はそれだけでなく、更に愚かな行為を冒してしまう。
選択肢は二つあった。
人族の男と、唯一の肉親である妹。
どちらを射抜くべきかなんて、決まり切っていた。
だというのに……っ!
「……え?」
私の弓矢は、最愛の妹の心臓を貫いた。
弓の名手として一度も獲物を逃したことのなかった私が、外してしまったのだ。
いや……違う。そうではない。そうではないことを自分が一番分かっていた。
自分で自分が信じられなかった。その時の私の脳裏に過ぎっていた思考は、このことがバレたら今の地位を失ってしまう、ということだった。
妹の愚行が許せず、粛清の意味を込め、私は自分の意志で妹を撃ったのだ。
あれだけ愛していたはずの妹を、私は地位や名誉のためだけに売ったのだ。
呆然とする私からヒューゴが逃げ切ることは簡単だった。ふらふらと歩み寄る頃には、妹はすでに絶命していた。私が、殺したのだ。
『…………ッ!』
まるで悪夢の中にいるかのようなふわふわとした感覚。
これが夢ならどんなに良かったか……
『……あいつだッ! 人族さえいなければ、こんなことにはならなかったッ!』
違う。全ては私の心の弱さが招いたことだ。
『やつが妹をたぶらかしたんだ……ッ! でなければレイラがこんなこと……!』
違う。全ては妹の心を見逃した私の責任だ。
『どうせ約束なんて守るつもりもないくせに! 今までどれだけの非道を積み重ねてきたと思ってるっ! そんなことも分からなかったのか、レイラッ! 人族と長耳族は……分かりあうことなんてできないのにッ!』
違う。歩み寄ろうとしなかったのは私だ。
自分の失敗を認めたくなくて、他の未来があったなんて信じたくなくて。
だから私は嘘をついた。誤って妹を殺してしまったと、そう報告した。
これで妹の名誉だけは守れる、なんて後付けの理由まで考えて。
囚われのヒューゴを殺した理由もそれだった。妹の愚行を知られぬようにと。
すべては結局……弱い自分の心を守るためだというのに。
◇ ◇ ◇
気絶したライラを介抱すること十数分。
ようやく目を開けたライラの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
澄んだ瞳が周囲を見渡し、やがて私と目が合うと、
「……ルナ」
「それなりに手加減したつもりだけど……具合はどう?」
体を起こそうとして一瞬、顔を曇らせるライラは自らの腹部に手を向ける。
「……手加減したのか」
「え? ああ、まあ、うん。全力でぶん殴ったら多分、ライラ死んじゃうし。そこまでするつもりはなかったんだけど、アリスがやられた手前一発くらいはいいかなって」
「ちょっとルナ、私のせいにしないでよね」
ライラを挟んで反対側、少し距離を離した木陰で治癒魔術を使って自分の傷を治しているアリスにライラの視線が向かう。
「治癒の術式……そうか、それであの傷から復帰したのか……」
「言っておくけど、アンタにはかけてあげないからね」
ほとんど終わっていたのか、治療を中断したアリスはこちらに歩み寄り、キッ! とライラを睨みつける。
「さあ! 敗者は黙って勝者に従いなさい! 何があったのかキリキリ話す!」
「勝ったのは私なんだけどな……」
「黙って喋れというのか、ふむ……哲学か?」
「うるっさいわね、二人とも!」
揚げ足を取られたアリスが憤慨しているが……その取りやすい位置まで上げた足が悪いと思うんだよなぁ。毎度のことだけど。
「まあでも、アリスの言う通り。何があったか教えては欲しいかな」
「…………」
「ちょっと、ここに来てだんまり決め込むつもりじゃないでしょうね」
「話すつもりはある。が、どこから話せばいいのか分からなくてな……私は元より話すのが得意な方ではない。それでもいいか?」
「いいからさっさと喋りなさい……ちゃんと聞いてあげるから」
「……そうか」
せっかちなアリスの様子に、ライラは一度だけ笑みを浮かべて話し始める。
恐らく嘘ではないであろう、妹と、そして自分のこと。その気持ちについて。
◇ ◇ ◇
「だから……私はヒューゴを殺したのだ。妹の罪を、私の罪を隠すために……」
話し終えたライラの過去に、私は何も言えなくなる。
咄嗟の行動だったとはいえ、自分自身の手で妹を殺したのか……ライラは。
その苦悩、葛藤、私には想像もつかない苦しみがあったに違いない。なんと声をかけるべきか悩む私に変わって、隣のアリスがパンッ! といきなりライラの頬を叩く。
「……アンタ、それは……それだけはやっちゃダメなことでしょっ!」
更には胸倉をつかみ、強引に顔を近づかせて強く睨みつける。
その間、ライラはされるがままの様子で呆然とアリスを見つめていた。
「自分の妹を……っ! それも血が繋がった妹を……!」
「……分かっているさ。自分がどれだけ重い罪を犯してしまったのかくらいは。だからこそ、せめて私はレイラの名誉を守って死なねばならぬのだ」
瞳を閉じ、すべてを受け入れる姿勢を見せるライラ。
「ヒューゴを殺したことには明確な理由があった。だが、お前たちはそうではない。お前たちに私がしたことは完全な八つ当たりでしかないからな。故に、私に罰を下すのならお前たちが最も適任だろう」
「……一体、何が言いたいのよ」
「殺してくれ、と言ったのだ」
「──ッ」
ライラの発言にアリスが短く息を呑む。私も、ここに来てのライラの発言には面食らった。確かに危うい気配がライラにはあったが、だからと言って……
「……そんなことでアンタの罪が消えるとでも?」
「いや……ただ、私はもう疲れてしまったのだよ。生きる理由も、目的も、何もなくなってしまった……自分の手で、壊してしまった。自分で自分が許せないんだ。ただ生きていても、きっと私はまた誰かを傷つけることしかできない。そんな無様を晒すくらいならいっそ……」
「…………」
「……アリス、離してあげてくれる?」
「ルナ……?」
アリスの肩を叩く私に、意図が読めなかったのか振り返るアリス。
ここははっきりと告げておいた方がいいだろう。私の気持ちを。
「ライラ、私はあなたを殺したりしないよ。あなたがそれを望んだとしても、私達はそれを望んでいないからね」
「……なら」
「だからって短絡的になって欲しくないから言っておく。ちなみにこれは貴方のためを思ってのことじゃないからね。そこは勘違いしないで欲しい」
ここまでのことをされてライラのことを全て許せるほど、私の心は広くはない。
だから、ここから先は私の気持ちではなくただの代弁に近い。
「私はね、ルーカスさんに頼まれていたんだ。もしもライラが望むなら、私の旅の仲間に加えてくれないかって。今となってはもうあり得ない未来だけど」
「……ルーカス様が?」
「あと、ヒューゴの件で言った目撃者だけど……あれはマヤのことなんだ。現場を目撃したマヤはこっそり私にそのことを教えてくれたんだ。どうして彼女が私にだけそんな大切なことを教えてくれたか分かる?」
「……いや」
「村の人間に知られたら、ライラが罰を受けることになるからだよ。マヤはライラのことを庇ってそう言ったんだ。部外者である私になら、なんとかできるかもしれないと思って。彼女は私に言ったよ。『ライラを助けてあげて』ってね」
涙ながらに懇願されたのは、救出の依頼であった。
彼女は子供ながらに察していたのだろう。ライラの心の葛藤を。いや、子供だからこそかもね。こういう時の子供の感受性は侮れないものがあるからさ。
「生きる理由とか、目的とか、そんなのは私も知らないよ。というかそんな複雑なこと考えながら生きてる人なんてほとんどいないんじゃない? 生きる理由なんてもっとシンプルでいいんだよ。少なくとも。ライラが死んで悲しむ人がいるってことは知っておくべきだと思う」
「…………」
「その上で、どうしても死にたいって言うなら死ねばいいさ。それもライラの自由だからね。でも、殺して欲しいなんて安易な願いを受け入れるわけにはいかない。マヤに顔を合わせられなくなっちゃうからさ」
生きるも死ぬも、その人の自由だ。どちらの選択も私は尊重する。
だが、その決定は取り返しがつかないことだからこそ、慎重になって考えるべきだと思う。こんなやけっぱちみたいな感情で決めることではない。
来世があるとしても、その人生はたった一度だけなのだから。
「…………分かったよ、お前たちに頼むのはやめる」
私の話を聞き終えたライラは、その場を去る様に歩き始める。
村のある方向とは、別の方向へ向けて。
「……ルナ、放っておいていいの?」
「あとは彼女の選択次第だからね。私たちにできるのはここまでかな」
「そう……」
どこかもやもやした感情を抱えている様子のアリスは、立ち去っていくライラの背に向けて両手をメガホンのようにして語りかける。
「アンタ! ちゃんと生きなさいよ!」
思ってもない言葉に驚いたのか、一瞬ライラの歩みが止まる。
「今がどれだけ辛くても! 生きることに絶望してても! いつかきっと幸せに思えるときがくるはずだから! 大切だって思える人が、あなたの前に現れるはずだから! だから……ちゃんと、生きなさい!」
アリスの必死の叫びに、ライラが答えることはなかった。
だが、それでもアリスは満足そうな表情を浮かべている。言いたいことを言えてすっきりしたのかもしれない。
「……自分を殺そうとした相手にそこまで言えるって、アリスはすごいね」
「きっと誰かのお人よしが移ったんでしょうね。それに……」
「それに?」
「……本当にそう思ってるから。止まない雨はない。でしょ?」
自分の実体験なのか、アリスの言葉には実感がこもっていた。
止まない雨はない、か。使い古された言葉だけど、良い言葉だよな。
「そうだね。私もそう思うよ」
すべての人がそうとは思わない。人によってはその雨の冷たさに耐えられず、命を落とす人もいるだろう。だが……ライラにはそうなって欲しくないと思った。
いや、ライラだからじゃない。他の誰であっても、見ず知らずの他人であってもそんな目に遭って欲しくはない。願わくば、傘を差してくれる誰かが傍にいてあげて欲しいと、そんな風に私は思うのだった。




