第417話 術式発動
シン調和国を照らす太陽が沈み始め、空が夕焼けに染まる頃、村の外れにある一軒家にて二人の少女が対峙していた。
「あんた……今、何しようとしてたのよ」
「……別に、少しじゃれ合っていただけだが?」
ずかずかとこちらに歩み寄るアリスに対し、ライラは冷静さを取り繕っていた。
だが、それも……
「は?」
アリスの身体を包む魔力を前に、意味をなさないことを察する。
今まさに、決定的な瞬間を見られてしまった。故に、この場における最適な対処は唯一つ。
「《大いなる風の精霊よ──》」
「…………ッ!」
機先を制し、詠唱を開始したライラに対し、アリスも対抗して詠唱を始める。
だが、先に詠唱を始めたライラの方が僅かに早かった。
「──《我が敵を屠りたまえ》ッ」
詠唱を終えると同時に、右手を横薙ぎに振るうライラ。
右手に纏っていた魔力は薄く研ぎ澄まされ、風の刃となってアリスを襲う。
超高速で飛来する、ギロチンの如き鋭さを持つ刃に対し、アリスは……
「《在るべきを正せ──『レジリエンス』!」
軽く埃を払うかのような仕草で、迫りくる風の刃を粉砕した。
アリスの放った純白の魔力に霧散する術式を見て、ライラは悟る。
「貴様……白魔術師だったか」
「────はっ!」
ライラの言葉には答えず、アリスは加速する。
魔力操作に優れる長耳族の血が流れるアリスにとって、纏魔の技術はお手の物。タイムラグなしに、白魔術から纏魔へと切り替えるその速度には身を見張るものがある。
しかし、それは相手にとっても同じこと。
「遠距離の利を捨てて突っ込んでくるか。相当頭に血が上っていると見える」
火系統の魔力で肉質強化、水系統の魔力で身体活性、風系統の魔力で運動エネルギーの操作と、一種の芸術にも思える流麗な魔力操作によってライラの身体能力は平時の数倍へと膨れ上がっている。
「当たり前でしょッ! アンタは私がぶん殴る!」
窓枠を乗り越え、室内に突入したアリスは振りかぶるモーションから急転換。体の捻りに逆らわないまま、その場で後ろ回し蹴りを放つ。そして……
──パシィィィィイ!
ライラの掌に踵を掴まれ、静止する。
「ぶん殴る、というのはブラフか? 視線から狙いがバレバレだったぞ?」
「…………ッ!」
「実戦経験の少なさが出た……なッ!」
ぐん、と持ち上げられた踵にアリスの身体が反転。
宙吊りの体勢からライラの肘鉄がアリスの腹部に直撃する。
「が、ふ……っ!」
「ちっ……」
だが、その隙にもアリスは軍式格闘術の基本でもあるナイフで踵を掴むライラの手を狙っていた。咄嗟に手を離したライラと、床を転がるようにして距離を取るアリス。その口元には真っ赤な血が滲んでいた。
「…………」
「…………」
刹那、睨み合う両者。
アリスはナイフを構えたまま低い姿勢を維持しており、対するライラは半身になって狙われる面積を減らす構えを見せた。
「アンナ、今の内に逃げなさい。こいつは私がなんとかする」
「で、でも……アリスちゃん……」
「良いから早く! このことを村の人たちに知らせてきて!」
アリスの剣幕に、悩んでいる暇がないと判断したのかアンナは喉元を抑えながらその場を離れていく。その間、ライラは彼女に一瞥もくれることはなかった。
「見逃してくれるなんてちょっと意外ね。相当、彼女に恨みが募っていたみたいだったのに。ま、あの能天気さを見てたら気持ちは分かるけどね。というか、村の人に知られたらまずいんじゃない? この村にいられなくなるかもよ?」
「……どちらにせよ、さ」
「え……?」
呟いたライラの右手が、僅かに光る。
その魔力光を見逃さなかったアリスは、警戒の構えを取るが、狙いはアリスではなかった。ライラは魔力を帯びた右手をその場で振るい。木造の建物へ叩きつけたのだ。
「はぁ!?」
──バキバキバキバキッ! と音を立てて砕けた木片を掴み取り、ライラは素早く詠唱を開始する。
「《大地と空の交わり・万物を包む不変なる者・大いなる風の精霊よ──」
反射的に詠唱を妨害するため、前方へ駆けだすアリスに向け──シュッ──持っていた木片を投げつける。抜いたナイフで弾こうと構えるアリスだが……
──バ……キンッッ…──!
「…………つっ!」
木片はアリスのナイフを砕き、左腕を掠めるようにして飛んでいく。
僅かに軌道を逸らすことには成功したが、あり得ない現象だった。ただの木の欠片が、金属のナイフを叩き折るなど……
(これはライラの術式……ッ! もう効果が発現してる……!)
近寄るのは危険と判断し、白魔術の詠唱を始める。
しかし、初手の判断ミスが戦闘の流れを決定してしまった。
「──我が名はライラ・我が望みに従い・悠久不変の理を示せ──」
アリスは最初から白魔術を用意するべきだったのだ。
そうすれば……
せめて、命だけは拾えたことだろう。
「──『絶対服従の天空域』」
ライラが詠唱を終えた次の瞬間、ライラは右手でへしゃげた家屋の壁を軽く叩く。すると、それだけで叩かれた家屋の一部がまるで弾丸のようにアリスへと襲い掛かる。
「ああァっ……!」
詠唱を中断し、回避に全力を注いだのは良い判断だった。それでも全身に裂傷を刻み、痛みに転げまわるアリスの未来に変わりはなかったが。
「──死ね」
そんな彼女に向け、先ほどアンナにしていたのと同じように首を鷲掴みにし、ぶん投げるライラ。たったそれだけの動作で……
──ド……ガアァァァァアアアアンッ!!
アリスの身体はまるで重力を無視するかのように地面と平行に家屋を巻き添えにしながら飛んでいく。10メートル……20メートル……30メートルと吹き飛ばされたアリスはようやくそこで止まる。
「……はっ……う……ッ」
全身を損傷し、放っておけば死んでしまうであろう彼女に対し、
「なんだ、意外としぶといじゃないか」
ついにバランスを崩し、倒壊する建物を背景に歩み寄るライラ。
その手にはアリスの持っていたナイフの一本が握られていた。
「獲物を苦しめる趣味はないんだ。だから……安心して逝け」
優しく差し出すような仕草でナイフが空を突く。
距離にして3メートル。直接触れるような距離ではない。だが、たったそれだけの動作でアリスの喉元は裂け、真っ赤な血を周囲に撒き散らし、アリスは絶命する……
「……なんだよ」
──そう、彼女がこの場に現れなければ。
「助けに来るのが随分と遅いんじゃないか? ……なあ、ルナ」
地面に伏し動けないアリスを抱きかかえ、間一髪のタイミングでその場を離脱した少女……ルナ・レストンの姿を見て、アリスは小さく安堵の笑みを浮かべた。
「……ごめん、ルナ……少し、休むわ……」
「分かった。アリスはここにいて」
ライラに見つからないよう距離を取り、木陰にアリスの身を隠したルナは再び舞い戻る。ここからは選手交代と、珍しくやる気に満ちた表情で。
「そのまま逃げても良かったのだがな。私が許せないか? ルナ」
「……別に」
「その顔でその台詞は無理があるだろう……今すぐにでも殺してやりたいって顔をしているぞ、お前」
「確かに少し怒ってるかもね。だけど、それとこれとは別だよ。私はただ……」
瞬間、空気が震える。小さな体から放出される魔力が、微細な振動を伴って周囲を揺らしているのだ。魔力の制御は心の制御、感情の揺れによってそれらは無意識のうちに放出されることがある。つまり……
「──なんでこんなことをしたのか、説明して欲しいだけだ」
本人は否定しているが、明らかに少女は怒っていた。端的に言うと……
──かつてないほどに、ブチ切れていた。




