第382話 タイムパラドックスの証明
「まったく……いきなり目の前に現れるからびっくりしたぞ」
「ごめんね、ノア。でもこれしか方法がなくてさ」
脱衣所の椅子に座った私は、びちょびちょになってしまった服をタオルで乾かしながらノアに事情を説明していた。私がたった今、過去から帰ってきたことを。
「大体の事情は分かった。つまり、これからノアはもう一人のお前を未来に送るために準備を整えればいいんだナ?」
「うん。大変だと思うけどよろしく頼むよ」
のぼせてしまったのか頬を赤らめているノアだが、頭の回転は相変わらずの様子。
私はとある事情で、過去に帰る時間を未来に跳んだ日の数週間前に指定した。
つまり、今この時間軸において私と過去の私、二人の私がいることになる。
過去の私は今頃、クレアに接近するためカレンの従者をしているはずだ。
これはとある予想を元に、あることを行うためだったのだが……それをいきなりノアに説明する必要もないだろう。まずは無事に帰還できたことを喜ぼう。
「とにかく、ノアが一人のタイミングで良かったよ。他の人がいたら説明が面倒になっていただろうからさ」
「んー……どうだろうナ、お前が過去にもう一人の自分の存在を知らなかったというのなら、そこまで大きな騒動にはなりようがなかったと思う」
「そうなの?」
「もしもそうなっていたなら、今のお前には『過去に未来からやって来た自分の存在を知る』というイベントが挟まれているはずだからナ。これは私の推測だが、お前はこれから何をどうしようともう一人の自分には会えないんじゃないかナ」
髪のセットが終わったのか、自分に使っていた乾燥用の魔術を今度は私にかけてくれながらノアが見解を披露する。
「運命の強制力、とでもいうべきか。そうでなくてはタイムパラドックスが発生してしまうからナ。時間を連続体として見たときの矛盾のことだが……」
「あ、それなら知ってるよ。でも、未来の私が言うには、観測者次第で未来は変わるからタイムパラドックスは起こらないって言ってたよ。事実、未来の私は過去を変えて二つの未来を体験していたみたいだし」
「フム……興味深い話だナ」
両腕を組んで、顎先を指でなぞるノア。今、彼女の頭の中でどんな思考が巡っているかは分からないが……頭の良い人が思案している瞬間って、なんだか絵になるよね。
私が天才児ノアとは真逆の小並感を思い浮かべていると、考察を終えたらしいノアが口を開く。
「……しかし、それでも体感していないだけでタイムパラドックスという現象そのものは発生しているとノアは解釈するぞ。観測は結果であり、タイムパラドックスは現象だからナ」
「……えーと、ごめんどういう意味?」
「本人に自覚がなくとも、歪みはどこかに出ているかもしれないということだ。タイムパラドックスが起こす現象が観測されていない以上、ないことの証明はできナイ。普通ではありえないことが起きていたとして、それを認識できない可能性もアル」
ノアの話は難しくて半分も理解できた自信はないが……もしかしたら、未来の私が背負うことになった認識阻害の呪い。あれこそがタイムパラドックスと呼ばれる現象に対する結果だったのかもしれない。
私が未来であったことを、自分の所感を踏まえつつ説明するとノアは頷いた。
「その可能性は高いナ。タイムパラドックスが起きた場合に起きる結果には幾つかのパターンを考えていた。それを起こした者が最初からいなかったことになる本人消滅説、世界のバグを解消するために世界そのものがなくなる世界消滅説、その段階で世界が二分される世界分割説などだナ。想定した中ではまだマシな結果と言えるだろう」
説を唱えるごとに一本ずつ指を増やしていくノア。
淡々と語ってはいるが、かなり物騒な想定だな。
「となると、今のルナの記憶と異なる行動を取って過去を変えてしまった場合は、お前にもタイムパラドックスが起こる可能性があるナ。気を付けろ」
「え……でもそれ、私が過去に来た時点で過去は変わっちゃってるんじゃ?」
「それはナイ」
私の心配に対し、ノアは即答した。
「『ノアの箱舟』は空間と時間を操る魔術だが、その基礎理論そのものは全く同じダ。つまり、この魔術の結果から観測さえできるのであれば空間の距離と時間の距離は同等として扱われることが分かるナ?」
「すみません。何を言っているのかちっとも分かりません」
秒で降参した私に、ノアはやれやれと溜息をつく。
くそぅ、今のノアの発言を理解できるやつなんてほとんどいないだろうに。
ぐぎぎ、と歯を食いしばる私にノアは淡々と説明を続ける。
「空間軸と時間軸は次元が違うだけで、同質の存在ということダ。例えば、火事によって家を失った者が別の街に移動したとして、そこで同じように火事に遭遇したりはしナイだろう? それと同じで未来から過去へ移動しただけでは、過去を変えたことにはならナイ。過去に火事という現象を持ち込むことはナイからダ」
「んー、そう……なの? でもそれならタイムパラドックスって起こりようがないってことにならない? ノアが懸念していたことと矛盾するけど」
「自然現象としてはおかしな話になるが、人間には意思があるからナ。火事をそのまま例にするなら、別の街に移動した後に放火をすればどうダ? 別の街での経験が、移動した後の街に影響を与えたとなるだろう? そして、それはその人物が街を移動しなければ起こらなかったことでもアル」
「……なる、ほど?」
ノアの話が合っているかどうかは私には判断ができない。
だが、認識阻害の呪いをタイムパラドックスの弊害として仮定するなら、今の私はまだタイムパラドックスを起こしていないということになる。目の前のノアが私の存在を覚えているからね。そこは確かな話だ。
「どちらにしても慎重に行動する方が良い。少なくとも、お前が未来に跳ぶまではナ。その段階さえ超えてしまえば、それ以降千年間お前はたった一人しかいなくなりタイムパラドックスは起こりようがなくなる」
「分かった。気を付ける」
つまりは他の人に無闇に会ったり、暴れたりするなってことだろう。
その辺りは流石の私でも分かる。幾つかしなければならないことがあるから、その為に外出する必要はあるが、『変身』スキルで変装すれば他人に成りすますこともできるし、大きな問題にはならないだろう。
「しかし、先に完成するという結果が分かってしまうと意欲が削がれるナ。これだけの規模の魔術研究を辞めるという選択肢はナイわけだが」
「あ……そのことなんだけどさ、ノア。ちょっといいかな」
「ん? なんだ、急に。改まって」
「『ノアの箱舟』が完成した後のことなんだけど……それを公表しないで欲しい」
「……は?」
私のお願いに、ノアは目を見開く。と言っても、普段から半開きの眠気眼みたいな瞳だから、ようやく常人レベルになった程度だが。
「……一口には許容しがたい話だナ。それはなぜだ?」
「それが戦争の引き金になるって未来の私が言ってたんだ」
地位、名誉、金、これだけの魔術を成果とすれば、途方もない対価を得ることができるだろう。それを捨てろというのが無体な話であることは理解しているが、これだけはなんとしても承諾させる必要がある。
私が過去に帰ってやらなければならないことの一つだ。
「『ノアの箱舟』を公表すれば、ノアは色んな派閥から狙われることになる。危険だから、ノアの身の安全を考えてこの魔術は公表しないで欲しい」
即物的な対価ではないにしろ、研究職として魔術を探求するノアにとってそれは、仕事の成果を誰にも言うなと頼んでいることに等しい。今までの努力全てを無為にする行為だ。
生粋の研究者であるノアはこのお願いを断るかもと思っていたのだが……
「分かった。ルナの言う通りにしよう」
「え……いいの?」
「お前が頼んできたんだろう。別に金や名誉に執着はしていナイからナ。別に構わないさ。とはいえ、もう一人のお前がきちんと過去に帰れるように術式の理論だけは整えておく必要がアル。その研究を行うことは構わないナ?」
「それは勿論。でも……本当にいいの?」
まったく抵抗感を示さないノアに私は再度聞き返すが、
「だから構わないと言っている。確かに、これだけの功績を歴史の影に埋もれさせることに心理的な抵抗感はアル。どこの馬の骨とも知らない奴に頼まれたなら一蹴するところだが、他でもナイお前の頼みダ。私を騙す気がナイことも分かってるし、危険な目に遭うと分かった上で公表しようとは思わん……って、なんだその顔は」
「いや、ノアにそこまで信用してもらえていることが嬉しくて」
正直、じーんと来た。理屈屋のノアが、理屈云々を抜きにして『私が言うなら』って受け入れてくれたのはちょっと嬉しすぎる。
「ハグでもする?」
「な、なぜそうなる!? まったく論理的でない結論だぞ!」
「えー? 遠慮しなくてもいいよ? もっと友情を深めようじゃないか」
「…………っ」
私が両手を広げて受け入れる態勢を見せると、急におろおろと手を上げたり下ろしたり挙動不審になる。焦ってるノアは可愛いなあ。
「なんてね、ノアがこういうの苦手なのは……」
分かってる。そう続けようとした私の前に、ととと……ノアが小走りで近寄り、がばっ、と抱き着いてくる。
「────!?」
自分でやっといてなんだが、本当にハグしてくれると思っていなかった私は面食らってしまう。
しかも……結構力強いな!
「こら、逃げるナ。お前が言ったんだぞ。ハグしたいって」
「し、したいとまでは言ってない気がするというか本当にするなんて思ってなかったが故のおふざけと言いますか……っ」
自分から言い出しておいて慌てふためく私は、ノアの身体をそっと引きはがそうと肩に手を置くのだが……そこでノアの紫水晶のような瞳が潤んでいることに気が付く。
ノアが……泣いている?
「えっ……と……」
「……また、無茶をしてきたのだナ」
呟くように言うノアの視線は私の目より少し上、額のあたりに集まっていた。それで私は彼女が何に気付いたのかに気付く。
「こんなに伸びてしまっているじゃないか……もう、前髪で隠せないぞ……」
ノアが見ていたのは私の額、そこに伸びる漆黒の角のことだろう。今の私の角は五センチ程度にまで伸びている。前髪をかき分け、明らかに突出した角は一目で私が人族ではないことを証明する枷となっていた。
千年後の戦いで私は何度も吸血モードで戦ってきた。これはその代償だった。
もう二度と戻ることのない、人族の言うところの亜人の証。
「ごめん、ノアは何度も私のこと心配してくれたのに……」
「……いや、お前のことだ。どうしてもそうせざるを得なかったのだろう。そこを責めるつもりはない。だが……こうなるのなら、未来になど行かせなかった」
後悔するようなノアの言葉に、きゅっと胸が締め付けられる。
「そもそもが危険な未来跳躍など、行うべきではナイというのに……よく未来の私が許可したものダ。無茶もここに極まれりだぞ」
「許可どころか背中を押してくれたのがノアだった記憶なんだけど……そんなに危険なものだったの?」
「ああ、二度と帰って来られない可能性も大いにあった。お前がここにいることでその可能性はゼロになったわけだが……ああ、だから未来の私は許可したのか」
私が未来に出立する時、ノアはどこか推奨するようなフシすらあった。この結末を知っていたのなら、私が未来から帰って来たという事実を覆さないためにも未来の私を未来に送る必要があったのか。
随分とややこしい上に、卵が先か鶏が先かみたいな話だな。その辺の理屈については私の頭では理解もできそうにないが。
「……しかし、未来に送ったのが他ならぬノアだというのなら、お小言を言うのは筋違いであるナ。あくまでお前目線からすれば、だが……とにかく」
何かに納得したらしいノアは、私の腰に回していた両手をぎゅっと強く引き、密着をより強くする。
「え、なに?」
突然のスキンシップに心臓が跳ねそうになる私へ、
「お、お前がしてきた未来での苦労を分かち合えるのはノアだけだ。だから、誰にも言えないなら私が言わなくちゃいけないと思って……」
「……どゆこと?」
「だから、その……」
非常に回りくどい前置きを終えたノアは、頬を染めながらその言葉を口にする。
「……お帰り、ルナ」
「…………」
「頑張った、ナ?」
椅子に座っていた関係で、私の膝の上に座るノアはまるで母親が頑張った我が子にそうするように、よしよしと頭を撫でてくる。
言われて初めて、私はどこか肩の力が抜けるような感覚を覚えた。
そうだ……ここは、私がいるべき場所なんだと、そう思えた。
「うん……ありがとう、ノア」
ぎこちない手つきで頭を撫でられながら、
「──ただいま」
私はそう、素直な気持ちを伝えるのだった。




