第359話 社会のしもべ
制止する言葉を吐く暇もなく、男の姿が一瞬で消える。
視界の端に影を捉えていた私は、横薙ぎに振るわれた短刀を屈んでかわす。
「良い反応ですね。ですが……これはどうです?」
右、左、そしてまた右と挟まれる形で飛んでくる斬撃に、上体を逸らして回避。
速く、早い攻撃だ。手数で押してくる相手には一旦距離を……
「逃がしませんよ?」
バックステップで距離を取ろうとした私の眼前に現れる男。
こいつ、動きも速すぎる。既に『吸血』スキルを発動させているせいだろう。
だったら……
「おっ?」
後ろがダメなら前に出る。
距離を殺して短刀より更に短い間合で勝負する。
両手で男の両手首を抑え、ここから蹴りを……
「──ッ!」
前蹴りを打とうとした瞬間、押し付けられるような重さに地面が軋む。
見ると私の両腕に、漆黒の球体が張り付いていた。まるで鉄球を埋め込まれたような重量に、自然と体勢が歪まされる。
(術者の手元から離れても消えない影魔術……これが奴の魔術の能力か!)
魔術によって発生した現象には『効果時間』が存在する。
術者が魔力を消費し続けることで、効果時間を延長することはできるのだが、術式範囲から外れた現象には追加の魔力を与えることが出来ず、ものの数秒で効力を失ってしまうのがほとんどだ。
だが、何事にも例外と言うのは存在するもので、『維持』性能に特化した土系統の魔力性質を与えれば、どれだけ距離が離れていようとも魔術は機能を続けることができる。
(射程や強度を犠牲に、存在していられる時間を伸ばした影魔術、ってとこか)
男の魔術性能をそう結論付けながらも、ほとんど無意識に詠唱を完了させる。
「影法師──『影槍』」
奴の魔術のせいで動きに制限をかけられてしまった。
となると、体術ではなく魔術で対抗するまで。
両手を掴まれたままだったせいか、私の影槍に反応できず男は腹部を貫通されながら後方へ押し出されていく。ようやく距離は取れた、が。
「ごほっ……詠唱が、早すぎる……あなた、相当やり慣れていますね?」
唇の端から流れる血を舌で舐めとる男は、平然とした様子。
恐らくは『再生』スキルのせいで、すでに傷も塞がっているのだろう。
「厄介すぎるな、吸血種……」
「あなたもそうでしょうに。見たところ、吸血はしていないようですが」
「…………」
こいつ、私のことをどこまで知っているんだ?
情報源も不明なら、詳細も不明……なんともやりづらい。
(『再生』スキル持ちを相手にするなら魔力切れの消耗戦を狙うしかないけど……一発もらえば終わりのノーマルモードで勝機はない、か)
ちらり、とノラとレイチェル、二人の人族に視線を向ける私に、
「おっと、今さら吸血はさせませんよ」
男が意識を逸らすように割り込んでくる。
ちっ、戦闘を愉しむタイプではありそうだが、あえて敵に塩を送るような真似はしてこないか。『吸血』スキルさえ発動できればなんとかなるのだが……
「というか、今になって血を吸うくらいなら、なぜ普段から血を吸っておかないのです? 吸わないメリットなんて何一つないはずですが」
「他人の嫌がることはしちゃダメって躾けられたものでね」
「人族に情けをかけている、と言うわけですか? 一体なぜ?」
「……本当に、人族のことを家畜程度にしか思ってないんだね」
男の言い草に、私は合点がいってしまった。なぜ、これほどまでに人族と吸血種の間に溝が生まれてしまっているのかという疑問に。
支配階級の人間がこんな思考では、そうもなるというもの。
「あなたには大切な人がいないから、他人を慮ることができないんだろうね」
もしかしたらこれは吸血種に限った話ではないのかもしれない。
街中でこの男に人族の男性が殺された時もそうだった。周囲の人間は目を逸らし、見てみぬふりをしてやり過ごすだけで干渉しようとはしなかった。
「どれだけ文明が栄えようとも、隣人すら大切にできないような社会は成長しているなんて言わない。あなたは人族のことを下に見ているようだけど、私から言わせればあなたなんかより、互いを思いやる心のあるこっちの二人の方が生物としてよっぽど上等だと思うね」
「…………」
私の言葉に、それまで丁寧だった男の雰囲気が凍りつく。
「互いを思いやる心、ですか……くく、そんなもの一体どこにあるのやら。そこの娘は私の質問にあっさりと答えてくれましたよ。どこの誰がここでこそこそと魔術研究を行っていたのかをね。花屋の青年にしたってそうです。私がちょっと睨みを聞かせればすぐにあなたの行方について教えてくれました」
「……お前が言わせたんだろう」
「精神力さえ強ければ抵抗はできますよ。あなたも吸血種の端くれであるのなら分かっている事でしょう? つまり、そこの娘は自分の意志で身内を売った、ということです。この事実のどこに互いを思いやる心があると?」
私の主張を、男は鼻で笑い飛ばした。
「もっとも、それが普通の反応というものですがね。誰だって心の奥底では認めているのですよ。自分達は上位存在に生かされているのだと。私達に逆らうことなど許されないのだと。故に簡単に膝を折り、頭を垂れるのです。そんな姿を見て家畜と称することのどこに不自然がありますか?」
「……聞くに堪えないな」
「ですがそれが真実なのですよ、真実だからこそ、今の社会ができた」
語る途中、男は両手に短剣を生成する。
あの魔術、再詠唱も必要ないのか……ッ!
「違うというのであれば、見せてくださいよ」
男は手に作った短剣に勢いをつけ、回転させながら放り投げる。
狙いは私じゃない……ノラだ。
「くそっ……!」
完全に油断していた……援護が間に合わないッ!
「ノラ!」
「──『ノアの箱舟』っ!」
投擲されたナイフがノラに突き刺さる瞬間、ノラの姿が抱えていたレイチェルごと消える。物音に振り向くと、無傷のノラが焦った表情でレイチェルを抱きしめていた。
「ノラ、そのまま逃げて!」
このままだと二人が危険だと判断した私は男に向けて駆けだす。
これ以上、二人に危害が及ばないように男をここに張り付ける必要があった。
「──『鍔鬼』ッ!」
漆黒の刀を生成した私は振りかぶるように男へ叩きつける。
剣士でもない私の一撃は簡単に見切られたようで、男の短剣で受け止められてしまう。が、それで構わない。今は時間稼ぎさえできれば……
「だ、ダメだルナ! 今は扉が閉まってるから……」
「…………っ」
そうか、『ノアの箱舟』の発動条件は瞬間移動先が視界にあること。
扉を閉められ、密室となった室内では有効に作用しない。
意図したことではないのだろうが、私達を逃がさないようにか扉側を意識して立ち回る男をすり抜けて脱出することは難しい。なら……
(こいつを倒す! 今、ここで……!)
全力で鍔鬼を振り回し、連撃を浴びせ続ける。
通らなくても、隙が作れればそれでも構わない。そんなつもりだったが……
「剣の腕は魔術ほどではないようですね……隙だらけですよ」
ひゅんっ、と風を切る音がして男の右腕が消える。
振り上げられた短剣には真っ赤な血が、糸のように付着していた。
「ぐっ……あああッ!」
次の瞬間、私の右腕に激痛が走る。
見ると、私の右腕、その肘から先がなかった。
「血を吸わない吸血種なんて、吸血種とは言えないでしょうに」
激痛にうめく私の首元に男の手が伸びる。
「終わりですね。期待外れでした」
そのまま首筋を掴まれた私は呼吸ができなくなる。
この男、私を気絶させるつもりだ……
「が……あ……ッ」
男の腕を掴もうと伸ばした右腕がないことに気が付く。
まずい、振り払うこともできない。このままだと……
白い靄のようなものが視界に映り始めたところで、私は視界の先でノラが落ちていた短刀を拾い上げるのを目にした。
男の魔術で作られた短刀だ。効果時間が残っているせいで、残存していたのだろう。
(ダメだノラ、そんなものでこの男に対抗できるわけがない……)
身体能力に優れているわけでもないノラではこの男に太刀打ちできないだろうと、ノラに視線を送る私だったが、ノラもそんなことは百も承知しているようで、自らの腕を持っていた短刀で斬りつける。
何をしているのか困惑する私に、
「ルナっ! 口開けて!」
真剣な表情のノラが叫びかける。咄嗟に口を開けた私に、ノラは手を向ける。
「──『ノアの箱舟』!」
詠唱が完了した瞬間、私の口内に甘い液体が満ちる。
そして……
──ゴキンッ──
私の首を掴んでいた男の腕から、骨の折れる音が響く。
私の右手が、男の腕を握りつぶした音だった。
「ぐっ……!」
ヴォルフの力が抜けた瞬間に、私は彼を蹴り飛ばし窮地を脱する。
「ごほっ、げほっ……助かったよ、ノラ」
再生した右腕で首を抑えながらノラに目配せをする。
ノラは私の口の中に自身の血液を転移させたのだろう。
ノラの献身のおかげで、私は無事に吸血モードへと至っていた。
「最高の援護だった」
物体のみを転移させる使用法は開発者のノアにすらできなかった応用だ。
それをこうも簡単にやってのけるとは……やはりノラは天才だ。
「後は私に任せて。こいつとの決着は……私がつける」
ノラは最高の仕事をしてくれた。
さあ、後は私の番だ。




