第345話 旅にトラブルはつきもの
以前にリンから吸血種に血を吸われる感触を教えてもらったことがある。
鋭い牙が肌に食い込んでいるというのに、痛みはほとんどなかったのだとか。
それどころかある種の快感を覚えていたらしい。相手が抵抗しないように吸血種の唾液には麻酔にも似た機能があるのでは、と考察していたのだが……
「あっ……」
目の前で血を吸われる女性の表情も苦痛に満ちたものではない。
リンの言っていたことは本当だったのだろう。羞恥に燃える真っ赤な顔で教えてくれたから嘘ではないだろうと思っていたが。あまりにも可愛い表情だったのでにやにやしていたらぽかぽか殴られたのも良い記憶だ。
いや、今はそんな幸せフォルダを思い返している場合ではなく……
「ごくん……悪くない味ですね。気に入りました。あなた、これから毎週私の屋敷に来なさい。私のコレクションに加えてあげましょう」
男の言葉に夫婦の顔がさっ、と暗くなる。
下を向く二人に男が低い声で尋ねる。
「何か文句でも?」
「い、いえ……光栄なことです。ありがとうございます」
「よろしい」
青い顔で感謝を告げる女性がこの展開を喜んでいないことは明らかだ。
「……ノラ、なんで逆らっちゃいけないんだ」
「え?」
「私はこの時代において部外者だ。この世界の常識を何も知らない。だけど……あの吸血種の男の言っていることが理不尽なことくらいは分かる」
「……なんで、って」
小声で尋ねる私に、ノラは答えなかった。
いきなりこんなことを聞かれても困るのかもしれない。
元の時代でも貴族に逆らうことはダメだと教えられてきた。なぜ逆らうのがダメなのか、その理由もきちんと知らぬまま。
「ま、待ってください! それだけは……っ」
話に意識を割いていると、女性の慌てた声が聞こえてくる。
先ほどよりさらに切羽詰まった声だ。
「待て? 低俗な人族が私達高貴なる吸血種に命令をしたのですか?」
「い、いえ、そんなつもりは……ですが、子供はご容赦ください! そもそも体力のない子供の血を吸うことは法律で……」
「黙りなさい」
「…………っ」
男の声にびくっ、と女性の体が恐怖に震えるのが見えた。
こちらにも届いたぞ、今のは『威圧』スキルだ。
「誰が反論を許可しましたか? あなた達は家畜だ。家畜は家畜らしく、主人の命令に従っていればよいのです。そもそも、此度の不手際はそちらにある。ならばあなたたちはまず誠意を見せる必要があるのではないですか?」
「それは……」
子供の体を抱きしめるように守っている夫婦に男が手を向ける。
「どきなさい」
低い声で命令された夫婦は項垂れ、子供を抱きしめていた腕を外してしまう。
少年の体は震えており、目尻には涙が浮かんでいるのが見えた。
「ああ……若い人間の血は久しぶりだ」
ゆっくりと手を伸ばす男はこの状況を楽しんでいるようだった。
男の手が少年に届くその直前、
「お、お、お許しください……っ」
そこでようやく、これまで黙っていた父親と思われる男が吸血種の前に出た。
「この子は体が弱く、献血に耐えられるかどうか分かりませんっ、なのでせめて成人するまでどうかっ! どうかお許しを……っ!」
震える声で情けを請い、額を地面にこすりつける男性。
勝手に動くわけにもいかず、成り行きを見守る私の前で、吸血種の男は……
「──二度目です」
「…………え?」
「あなた方が私に命令をした回数ですよ」
こつ……と、革靴を響かせて家族に向けて一歩近づく。
そして……
「分を弁えろ、家畜」
吸血種の男の言葉と共に、鮮血が宙を舞う。
静かに溢れ出る血は、振るわれた吸血種の男の指先をなぞる様に飛翔し、空中に半円を描いた。それから間もなく、男性の首から噴水のように血が溢れだす。
「……ぁぶ」
口元から血の泡を吐き出した男性は、必死に首を抑えるがそれで血が止まるわけもなく、壊れた蛇口のようにドバドバとその場に血を溢れさせていく。
「──いやあああああああああああッッ!」
明らかに致命傷と思われる出血に、女性の悲鳴が響き渡る。
その声に吸血種の男は耳障りだと言わんばかりに眉を寄せ、指先についた血をなめとると、
「ふむ、やはり中年男の血はイマイチ。殺処分も致し方ないですね」
胸元のハンカチで手についた血をふき取り、ぱっと路傍に投げ捨てる。
私はその一連のやり取りを黙って見ている事しかできなかった。
あまりにも当然のように行われた“殺人”に反応ができなかったのだ。
(なんだよ、これ……誰も、おかしいと思わないのか……?)
そのあまりにも不自然な状況に目を疑いたくなる。
周囲の人たちも変わらず目を逸らして足早にこの場を通り過ぎていくだけ。今、人が死んだんだぞ?
それなのに……まるでそれが当然であるかのように……
「……大丈夫。そっと離れよう。それで大丈夫だから」
私の震える拳を優しく包むようにノラが手を繋いでくる。
彼女は私の震えを見て、怯えていると思ったのだろう。
確かに、あまりに現実感のない出来事に怯んだ部分もある。だが、それ以上に、
(許されていいのか……こんな横暴が……ッ)
あまりにも理不尽な死に、私は怒りを覚えていた。
私のいた時代にもあったさ、そりゃ。理不尽な死なんてものは。
だが、ここまでじゃなかった。ここまで酷くはなかった。
「……ルナ?」
動き出そうとしない私にノラが不安げな声を上げる。
ああ、分かってるさ。これは私が関与するべき問題ではない。
だが、
「ごめん……ノラ」
「え……っ」
ノラの手を振り払い、吸血種の方向へ駆けだした私にノラが驚きの声を上げる。
確かに理屈では見逃すのが正解なのだろう。私にとってメリットと呼べるものはほとんどなく、デメリット、リスクは特大と来たものだ。
でも、だからって……
(これを見逃がしたら……男じゃねぇだろっ!)
「では本命の娘の血を……おや?」
泣き崩れる母娘の前に飛び出した私に、吸血種の男は眉を寄せる。
「何のつもりです?」
「…………」
特に作戦も何もない、この時代のことを何も知らない私に口論もできない。
だから……両手を横に広げ、目で訴える。これ以上はやめてくれ、と。
「あなたも私の邪魔をするのですか?」
「私は……ただ、ここに立ってるだけですよ」
「……はっ!」
私の詭弁に、男は愉し気な声を上げる。
「はっ、ははっ、ははははっ! すごいですね! 先ほど一人殺されているというのに、それでもなお立ち向かってきますか! しかも、何を言うかと思えば立っているだけ……ははははっ!」
「私も、殺しますか?」
「ええ? ああ、そうですねぇ……どうしましょうか」
思案しているのか、私の身体をつま先から頭のてっぺんまで舐め回すように見てくる男。まるで、というかまさしく品定めしているのだろう。
「……あなたの目的はこの場を収めること、でしょう? だったら取引をしましょう。あなたが私のコレクションに加わってくれるのであればこれ以上は何もしません。あなたのような面白い人間は好きなので、可愛がってあげますよ?」
下卑た笑みを浮かべて、気色の悪い笑顔を浮かべる男に生理的な嫌悪感が湧き上がる。どうあっても何かを手に入れなければ気に喰わないらしい。強欲な男だ、だが交渉はできる手合いらしい。問題はどう交渉するかだが……
「そこまでだ、ヴォルフ」
私がこの場をどう切り抜けるか考えていると、横から待ったの声がかかる。
見ると、そこには恰幅の良い男性の吸血種が立っていた。
「リードさん……そこまで、とはどういう意味で?」
「そのままの意味だよ、ヴォルフ。未成年の血を吸うことは禁止されている。自宅で飼うこともな。国民の反感を買うような真似はよせ。そんなだから貴様は狂犬などと呼ばれるのだ」
「…………」
ヴォルフ、と呼ばれた目の前の男は傍から見ても分かる程不機嫌そうな顔を浮かべている。立場的には後から現れたリードと呼ばれた吸血種の方が上なのだろう、従わざるを得ない立場であるが故の苦渋の表情と予想できる。
「悪かったね」
こちらに歩み寄ってきたリードと呼ばれた人物は、へたり込んでいる母娘にそう声をかける。
どうやらこの人は良識のある吸血種らしい。
「せめてものお詫びに私の屋敷に招待しよう。車も出す。そこで心身の疲れを取ると良い。ああ、もちろん母も娘も一緒だとも。引き離すようなことはしない」
父親を失った家族に寄り添うように温かい言葉をかけるリード。
この人が現れてくれたおかげで場はまとまったかな?
なら、私もこの隙に……
「──あなた」
どさくさに紛れてそっとこの場を離れようとした私に、ヴォルフが話しかける。
「……なんでしょう」
「私達、どこかで会ったことがありますか?」
「? いえ……初対面かと」
「そうですか。まあ、いいです」
まるでナンパ男みたいなことを言い出したヴォルフだったが、興が冷めてしまったのか、上役の前で無理はできないのか興味を失った素振りでそっぽを向く。
「──顔は覚えましたし、ね」
最後にそんな不吉な一言を残して。




