第327話 近くにいても大切な人だとは限らない
私の覚醒は唇に当たった何か柔らかい感触と共にやってきた。
寝ぼけ眼を開くと、さっとクレアが身を翻すのが見えた。既に着替えを終えているようで、学生服に身を包んでいるクレア。あのワガママお嬢様が一人で着替えを終わらせるなんて……成長したんだな。
「あれ……クレア今何かした?」
「してないわ」
食い気味にクレアが否定する。
確かに何かが触れたような気がするんだけど……クレアの悪戯だろうか。
「学園に行くんだよね。送るよ」
「構わないわ。今日は別の場所に用事があるの」
「え?」
あの優等生のクレアが学園をサボる、ってことか?
またまた珍しいことがあるものだ。
「どこに行くか聞いてもいい?」
「来れば分かるわ……付いて来てくれるわよね?」
私が付いていく前提で考えていたらしく、途中から不安そうな顔を浮かべるクレア。
愛い奴よ。私としても否はない。忠犬よろしくお供するとしよう。
◇ ◇ ◇
クレアの目的地は思いのほか近場にあった。
豪邸と呼んで差し支えない建物をぐるりと囲む鉄柵。私は初めて来る場所だったが、クレアにとってはそうではないらしく、慣れた足取りで門の前までやってくると持っていた鍵で錠を外し、そのまま中へと入っていく。
「こっちよ」
クレアの先導で豪邸の玄関までやってきたところで、内側から扉が開かれる。
丁度誰かが外に出て来たらしい。二人のメイドに扉を開けさせながら、中から出てきたのは見覚えのない中年男性だった。手入れされた金髪や身なりの良い服装から貴族であることが伺える。
「……クレア?」
男性は一瞬驚いた表情を浮かべたが、クレアの姿を確認するとぱっと顔をほころばせる。
「ああ、クレア! ようやく帰ってくる決心がついたんだね!」
「お久しぶりです、お父様」
クレアの言葉にようやく理解する。この男はクレアの父親、つまりグラハム家現当主のチャーリー・グラハムだと。となると、ここはクレアにとって実家ということになる。
「ん? ああ、そうだね。いつぶりだろう、確か……」
「学園入学以来ですので、半年ぶりほどかと」
「そうかそうか、もうそんなに経つのか。学園での調子は……あれ、そういえばこの時間は学園にいるはずじゃ?」
「そのことでお父様にお話があってきました」
隣に立つクレアが僅かに息を呑む音が聞こえる。
緊張しているのだろう、それでもクレアは毅然とした口調で告げた。
「私は……学園を自主退学します」
その言葉に私と、チャーリーは同時に驚きの表情を浮かべることしかできなかった。
「え? ど、どうしたんだい急に、あんなに頑張っていた勉強をやめてしまうのかい?」
「はい。お義母様にも言われました。学園なんて辞めて、結婚相手を探しなさいと。私も色々と考えたのですが……その言葉に従うことに決めました」
「えっ……」
クレアの言葉にチャーリーはぱっと顔をほころばせる。
対して何も聞いていなかった私はさらに驚くことしかできない。
「そうかそうか! それはとても良い判断だと思うよ、うん! キャサリンも喜ぶだろうし、僕も一安心できるってものだ! クレアは昔からそう言う話が苦手だっただろう? だから……」
「最後まで話を聞いてもらえますか? チャーリーさん」
「え? あ、うん……?」
慣れない呼ばれ方に、チャーリーは戸惑っている様子だった。
かくいう私も戸惑っていた。決して仲の良い家族関係ではないと聞いていたが、クレアの声音には私の予想を上回る冷たさが宿っていたからだ。
「言葉に従うとは言いましたが、あなた達に従うとは言っていません」
「えっと……それはどういう意味だい?」
事態が飲みこめていない様子のチャーリーに、クレアは一度大きく深呼吸をし、
「本日をもって、私はグラハム家との縁を切らせていただきます」
僅かに震える声で、実家との絶縁を宣言するのだった。
「「えっ!?」」
私とチャーリーの声が重なる。
衝撃を受けた時の人間の反応は大体同じになるみたいだね。
って、そんなことはどうでもよくて……
「グラハム家と縁を切るって……本気なのかいクレア!? それはつまり貴族ではなくなるってことだよ? 今みたいな暮らしは続けられなくなる! 本気で言っているのかい!?」
「はい。本気です」
実の父親の説得にもクレアは聞く耳を持たなかった。
「良い歳して嫌がらせしかできない継母にも、崩壊していく家族をほったらかしにして他の女のところに行くような父親にも、裏で卑怯な策謀を巡らせる貴族社会にもうんざりしました。これからは平民として生きていきます」
いつしか声の震えはなくなり、凛とした通る声で強く告げるクレア。
対して、先ほどまでの余裕はどこへやら代わりにチャーリーの声が震え始める。
「いや、いやいやいや……急に何を言い出すかと思えば……はは、タチの悪い冗談だね。私の庇護下を離れて生活なんてできるわけがないだろう? 住む場所とか、生活費とか、一体どうするつもりだい?」
「経営学習の一環として運営していた流通ギルドの売上が順調ですので金銭面に関しては心配いりません。住む場所にしても、しばらくはホテル暮らしにするつもりです」
「そう言う問題がクリアできたとしてもだ、これからたった一人で生きていくっていうのかい? 怪我や病気、業績の悪化だってあり得る。そういう時に頼りになるのはやっぱり家族しかいない。家出なんて、バカなことを考えるのはやめなさい」
チャーリーにはクレアの提案は呑めるものではないらしい。
絶縁を家出と言い換え、目の前の問題から逃げているのが見て取れた。
クレアはとっくに家族と向き合う覚悟を決めているというのに……
「家族のことを頼りに思ったことなんてありませんよ。それに……私は一人じゃありませんから」
そう言ったクレアはたんっ、とこちらに一歩近寄り私に密着する距離まで身を寄せる。
「私には家族よりもずっとずっと頼りになる大切な人がいます。だからもうあなた達は必要ありません。一人娘が他家に嫁ぎに行ったと思えば諦めもつくでしょう?」
にやり、と笑みを浮かべるクレアに私も思わず笑ってしまう。
そうだった。最近は追い詰められている場面ばかりに遭遇していたから忘れかけていたよ。
クレア・グラハムとはこういう子だった。
今の言い方だと私のところに嫁ぎに行ったようにも聞こえるけど、それも計算の内なんだろう。これで私も強引に話の渦中に巻き込まれてしまったわけだ。小賢しいというかなんというか……まったくもう。
「嫁ぎに行ったと思え……? そう言えばクレアは昔から可愛い女の子と結婚したいとか言ってたような……本気だったのか……」
どうやらクレアの女の子好きは昔からだったらしい。
なにやらガチの勘違いをされてるっぽかった。
「ふふ、はははっ……ウソだろう? クレア……君がいなくなったらグラハム家はどうなるんだい? 一人娘の君がいなくなったら我が家は後継者がいなくなってしまう。だからさっさと適当な貴族の家へ嫁ぎに行って欲しかったのに……貴族を辞める? そんなこと認められるわけがないだろう?」
「あなたに認めてもらう必要はありません。私の人生は私のものです。あなた達の思い通りになんてさせませんよ。それに……子供ならまた作ればいいでしょう? 得意なんですから、そういうの」
「………………ッ」
娘から浴びせられた痛烈な皮肉についにチャーリーは言葉を失ったようだ。
わなわなと震えている様子を見るに、激高一歩手前といったところか。
「さ、そろそろ帰るとしましょうか。ルナ、行くわよ」
「え、あっ……は、はい!」
何の後腐れもないかのように、振り向き歩き始めるクレアに慌てて続く。
すると背後からチャーリーの絶叫のような声が聞こえてきた。
「待て、待ってくれ! クレア! 今までのことは謝る! 私が悪かった! これからは改心する! もっとクレアの事を考える! だから……っ! 行かないでくれぇッ!!」
駆け寄ってくるチャーリーの手がクレアに伸びる。
咄嗟に割って入ろうとするが、途中でぴたりとチャーリーの動きが止まった。
見ると、クレアが肩越しにチャーリーをゴミでも見るような視線で見つめていた。
「これからは? つまり自覚はあったんですね。今まで家族をないがしろにしてきたという自覚は」
凍えるような声に、チャーリーは悟ったようだった。
もう、クレアの心はどうやっても取り戻せはしないということを。
「──さようなら、お父様」
その場に崩れ落ちるチャーリーを尻目に、私達は屋敷を後にするのだった。




