第326話 他人を理解するということ
「いらっしゃいませ。二名様のご利用でよろしいでしょうか?」
エントランスの扉を開くと、柔和な笑みを浮かべた女性が話しかけてくる。
「はい。一泊だけしたいんですけど、大丈夫ですか?」
「もちろんです。こちらにどうぞ」
一目で高価と分かる壺や絵画が飾られたエントランスを女性について歩き始める。
私達が選んだ宿は王都の中でも最高級と言って差し支えないホテルだった。人の目を増やすことで襲撃者を牽制しようという狙いだ。警備も小さな宿舎よりはしっかりしているだろうしね。
「お部屋はどのようなものをご用意いたしましょう?」
「えっと……」
本来であれば同じ部屋で寝泊まりした方がいいのだろうが、私の頭をよぎったのはクロエさんから教えてもらったクレアの過去についてのことだった。
以前、実の母親からベッドの中で殺されかけたクレアは他の誰かと寝ることを好まないという。
クレアが心から休まれる環境を考えるなら部屋は分けておくべきだろう。
「それなら一人部屋をふたつ……」
「二人部屋に一泊だけさせてちょうだい」
私の言葉を遮るようにクレアが女性に告げる。
「……良いんですか?」
「なによ、ルナは私と一緒の部屋が嫌なの?」
「いえいえ、そんなことあるわけないじゃないですか」
「だったら決まりね」
有無を言わせない口調だった。クレアに従い二人部屋を確保した私達はそのままの足で部屋へと向かうことに。こじんまりした部屋は二人で使うにはやや手狭に感じるが、どうせ一日使うだけだ。不便というほどのことでもない。
それから私は一緒にお風呂に入ろうというクレアの要望を断って順番に入浴したりしながら深夜を迎えた。そして、いざ入眠という段階になってクレアが奇妙なことを言いだした。
「ルナ、今日は一緒のベッドで寝ましょう」
「え……?」
二人用の部屋なので当然ベッドも二つある。
なのにわざわざ一つのベッドで寝ようとクレアは言い出したのだ。
「いや、でも狭くないですか?」
「私は気にしないわ」
こっちが気にするんだっちゅーねん。
「ほら、こっちおいで」
「あ、ちょっ……!」
クレアに手を引かれる形で強引にベッドに連れ込まれる。
一人用のベッドに二人で入るのはやや手狭に感じるが、お互い小柄なこともあり横になれないというほどではなかった。
「ふふ、なんだか不思議な感じね」
「強引すぎますよ、お嬢様」
「あら、知らなかったの? 私は強引な女なの」
べー、と舌を出して笑みを浮かべるクレアはこの時間を楽しんでいるようだった。
なんだか屋敷に居た頃の彼女を思い出す。少しずつでも調子を取り戻しているなら良いのだが……
「あの、お嬢様……」
「なに?」
「その……当たってるんですが」
「別に良いでしょ、女の子同士なんだから」
女の子同士でもよくはないと思う。だって男同士で置き換えると……いや、やめよう。この想像は誰も幸せにならない。
私が素数を数えていると、クレアが「ねぇ」と話しかけてくる。
「ルナはどうして私を守ってくれたの?」
「当然じゃないですか。クレアお嬢様は私の恩人ですから」
「……それだけ?」
視線を向けると、何かを期待するような瞳でクレアが私を見ていた。
「私は……クレアお嬢様のことが大切です」
「それは友人として?」
「そうですね。友人と思っていただけるなら嬉しいです」
「だったら、敬語で話さないでよ」
「え?」
「私はもう貴方の主人じゃないのだから。ルナがいつもお友達と一緒にいる時みたいに私とも話すようにして?」
甘えるような口調だった。強引というか、傍若無人なところは変わらないのだが雰囲気がいつもと違う。だけどそれが悪いとは思わない。むしろ、今までが気を張りすぎていたように思う。
「……分かったよ、クレア」
「うん。よろしい」
可愛らしく笑みを浮かべるクレアに私も微笑み返す。
それから私達は色々な話をした。といっても、話の内容はほとんどが私の家族についてクレアの質問に答えるという形だったが。
「そっか……ルナは家族に愛されてるんだね」
「うん。だから、私も家族のために出来るだけのことをしたい。そのうちいつか一緒に暮らせたらなって」
「……一緒に、か」
私の言葉にクレアは視線を逸らした。きっと彼女自身の家族のことを思い出しているのだろう。
「あのさ、クレア」
「ん、なーに?」
「……実は私、聞いちゃったんだ。クレアとその、キャサリンさんが話しているとこ。あんまり仲が良くない……んだよね?」
「そうだね……そうかも」
なんでもないようにクレアは言った。
「うん、ルナになら話してもいいかな。言いふらしたりもしないだろうし」
「それはもちろん。でもクレアが話したくないなら……」
言いかけた私の唇に、ぴたりとクレアの指先が触れる。
「ルナならいいよ……大丈夫」
それからクレアは語り始めた。彼女自身のその過去を。
「私はね、妾の子だったの。お父様が不義理を働いた結果生まれた子が私。だから本家での私の立場はずっと微妙なものだった。だった、っていうか今もなんだけどね。特に対外的には母親ってことになってるお母様の方からは憎まれてすらいると思う」
不安からか、その細腕で体を抱くように丸くなるクレア。
「私が独立して今の屋敷を持つようになったのはお父様の提案だった。このまま形ばかりの関係を続けていたって二人にとって良くないだろうからって……自分が作った状況の癖に他人事みたいだった」
父親のことを話すクレアだったが、その口調にはむしろ侮蔑すら含まれていた。
「私は……お母様に認められたかった。魔術の修行をして、お爺様みたいな立派な魔術師になればきっと褒めてもらえるだろうって……情けないよね、色々と立派なことを言って結局は自分のためだけにやってたなんて。貴族の務めとか、そんなこと言ってた私が……でも……」
震える声のクレアに視線を向け、私はぎょっとした。
「でも……私は、ダメだった……どれだけ努力しても、一番にはなれなかった……授業でもそう、決闘の時もそう、それに今回のことだって……私はただ震えて突っ立ってることしかできなかった……そのせいで、お母さんが……っ」
あの気丈なクレアが涙を流していた。誰に憚ることもなく、大粒の涙で美しい瞳を濡らしていた。
「お母さんは私が寂しくないようにって、ずっと傍にいてくれたのに! 私は、何もできなかった……っ、私は……!」
「落ち着いて、クレア」
自分を責めるクレアを落ち着かせようと、私は彼女の手を取った。
ひどく冷たい手だった。
「私はクレアが何もできなかったなんて思ってない」
「でも、私は実際……」
「他人の心の内は読めない。だから、その心は推測して、それを信じるしかない」
「…………え?」
「クレアが教えてくれたことだよ」
私はクレアの手を両手で包み込むようにする。
冷たい手をじんわりと私の熱が覆い、ゆっくりと同化していく感覚。
「もしもクレアが私に優しくしてくれなかったら、私はあの晩、あそこにいなかった。そしたらクレアも、メアリーさんも助かってなかったと思う。つまりね、クレアが今まで努力してきたから私はクレアを助けたいと思ったし、実際に助けることが出来た。クレアは何もできなかったわけじゃない。確かに努力に結果はついてこなかったかもしれない。努力することに意味があるなんて綺麗ごとも言えない。でもね、クレアが努力していたから私やメアリーさん、それに他のメイドのみんなもついて行こうって思ったんだよ」
自分の想いが伝わるよう、クレアの瞳を見つめながら告げる。
「クレアだからだよ。他の誰でもない、あなただから私は助けた。それはクレアの魅力で、他のなにとも比べられない価値だと思う」
「でも、それは偶然よ……ルナが落ち込んでるときに、たまたま私がそこにいただけで……」
「偶然なんかじゃない」
私は断言するように否定した。
自分が絶望のどん底にいる時、それをきちんと理解して救ってあげることが出来る人は案外少ない。
それはその絶望が理解できないからだ。
自分にとって深刻な悩みが他人にとって小さく見えるなんてことはよくある話。私とアリスの仲違いにしたって、たった一人仲の良かった友人と仲が悪くなったというだけの話だ。他人から見たら何をそれほど、と思うかもしれない。
他人の痛みに気付くこと、他人の痛みを理解すること、他人の痛みを癒すこと。
これらは単純なようで、とても難しい。
「少なくとも、私は運が良かったなんて思ってない。クレアが頑張ってきたから、努力してきたから、人に寄り添ってきたから今の私達の関係がある。クレアは私にとって大切な人だから。そんな人を悪く言うようなことは聞きたくない。それが本人の口からだとしてもね」
「…………よく言えるわね」
「え?」
「そんな恥ずかしいこと、よく言えるわね……って」
先ほどまでのどんよりした表情もどこへやら、頬を赤くしたクレアがぼやくように呟く。
視線はまだ、合わせてはくれない様子だ。
「言わなきゃ伝わらないと思ってるからね」
「それはそうだけど……そうだけど」
私の手を離したクレアが枕を抱きしめ、足をバタバタと暴れさせ始める。
はしたないからと止めようかと思ったが、今の私はただの友達。見逃すことにした。
「はぁ……本当にルナは、可愛い顔してそんなこと言うんだから……」
「顔は関係ないと思うけど」
「そう言う意味じゃないわよ。でも……ありがとう」
顔を僅かに上げ、私を見ながらクレアは告げる。
「……あなたに出会えて良かった」
優しく微笑むクレアに、窓の隙間から月の光が差し込む。
真っ暗だった室内に入り込んだ一筋の光、それはまるで彼女の前途を祝福しているかのようだった。




