第297話 超えるべき壁
ダレンの手によって肩から腹部を切り裂かれたテゾーロは気を抜けば吹き飛んでしまいそうになる意識を必死に繋ぎ合わせていた。
全てはこの決着を見届ける為に。
「テゾーロ様」
そんな彼の近くに影が舞い降りる。
ルナの作った天井穴から降りてきたのは褐色の肌をした女だった。藍色の短髪の下にある顔立ちは中性的に整っており、ともすれば男性にも見えなくはなかったが、すらりと伸びたプロポーションは女性的な曲線を帯びている。
「アルファ……良く、やりました。これで……」
言いかけたテゾーロが激しく吐血する。
その様子を見ていたアルファと呼ばれた少女はテゾーロの体を優しく抱き起こし、抱え込もうとする。
「この傷、すぐに治療しなければ命に関わります。まずは安全な場所に向かいましょう」
「いけません……アルファ」
その手を払いのけるテゾーロ。その視線は真っ直ぐに部屋の中央へと向かっていた。
「ここからが良い所なのです。二人の覇者……そのどちらの意思が勝るのか……それを見届けるまでは……」
次の瞬簡には死んでもおかしくない重傷だというのに、テゾーロは薄い笑みを浮かべながらその光景を見守っていた。その言葉を聞いていたアルファは一度瞳を伏せ、納得した表情で腰のポーチから医療用の針と糸を取り出す。
「分かりました。ですが、治療は行わせてもらいます。貴方に死なれては困りますので」
「ええ……構いません……幸い、傷みも薄れてきましたから……」
テゾーロの体を物陰に隠しながらアルファは治療を開始する。
その直前に一度だけ白銀の少女へと視線を向けるが……
「……テゾーロ様も残酷なことをなさる」
漏れた独り言は誰の耳に届くこともなく、虚空に溶け、消えていった。
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運が向いてきたと、そう思っていた。
ギルド支部でアルファと名乗る女性に出会い、この場を教えてもらった。おかげで私はキースを倒し、お父様を解放するという道を見出すことが出来た。
しかし……
「ダレン、この小娘を……殺せ」
お父様がこの場に居合わせたことが私にとっては最悪すぎる展開だった。
キースさえ倒してしまえば、奴隷は解放される。
不当な契約で束縛されているお父様もそれで自由になるはずだったのに……
「ぐっ……!」
目の前で苦悶の表情を浮かべるお父様。
奴隷が与えられた命令に抗うことは非常に難しい。そのことを元奴隷だった私は身をもって知っている。だからこそ、
「くそっ!」
私は眼前のキースに向けて、全力の一撃を放つ。
吸血鬼の身体能力で放つ拳は人間のそれを凌駕する。
ただの人間には受けることすら出来ないはずだったが……
──パァァァァァァァン!
私の放った拳はあっさりとキースの手によって止められてしまう。
「なっ……!?」
かなりの威力を持った一撃。しかし、キースはその場から一ミリも動くことなく私の全力を受け止めて見せた。
「俺に構っていて良いのか? お前の大好きなお父様が苦しんでいるというのに」
私の手を掴むキースの握力は尋常ではなかった。
どうやらそのガタイは見かけ倒しって訳ではないらしい。
「子供は親に遊んでもらうものだ」
「うわっ!」
力任せに振るわれる腕。それだけで私は宙へ放り出される。単純な腕力だけで言えば恐らくそう大した差はない。しかし、体重が違いすぎた。単純な話。同じ速度でぶつかったのなら軽い方がより遠くまで吹き飛ばされる。
「くそっ……ルナ……っ! かわ、せ……っ!」
飛ばされた先で待つお父様は震える手で剣を構える。
その剣先が私に向けて真っ直ぐに伸ばされるのを視界に捉えた私は右腕に魔力を纏わせる。具体的な形を作る暇がなかった私は『影法師』をそのまま纏うように展開し、即席の防御壁としたのだが……
「ぐっ……!」
ブシュッ、と右腕から血が飛び散る。中途半端に練り上げた『影法師』では完全に防ぎきることが出来なかったのだ。
「ルナっ!」
「大丈夫」
心配そうにこちらを見るお父様に私は腕を振って応える。
不完全な防御だったとはいえ、ある程度のダメージは抑えることが出来た。
この程度なら放っておけば勝手に治るだろう。
(それよりも問題なのはこの状況……どうする)
お父様は命令を受けて動けない。キースを倒すにしても、お父様がいる状況ではのんびり構えている暇はないだろう。更に言えばキースを倒す算段が立っている訳でもない。
(だったら……)
思考をまとめた私は一直線に駆け出す。
「ルナっ!?」
驚くお父様。まさか私から突っ込んでくるとは思わなかったのだろう。
まずはお父様から無力化する。それが私の立てた作戦だった。
「少し痛いかもしれませんが、我慢してください」
間合いを詰めた私はその勢いのまま拳を構える。体重が軽いのならば、その速度を増せばいい。これもまた単純な理屈だ。
腹部へ掌底を入れ、『発勁』をぶち込む。その流れを思い描いていた私の目論見は……
「駄目だ、ルナっ! 下がれっ!」
お父様の一言であっさりと破綻する。
あまりにも切迫したお父様の声に私はつい速度を緩めてしまっていた。
そして、それが結果的に私を救った。
──ヒュッ!
私に捉えることが出来たのは小さな風斬り音だけだった。しかし、それによって生じる現象は火を見るより明らかだった。
一泊遅れて──ズバンッ──という破裂音にも似た音が響き、私の足元に一直線の裂傷が刻まれる。私とお父様を隔てるかのように刻まれたその傷跡はお父様が放った一撃。
しかし……
(嘘、でしょ……吸血鬼の動体視力で見切れないだって……?)
私はその軌跡を一瞬でも見切ることが出来なかった。
オリヴィアさんと立ち会った時にも感じた力の差。それを今、私はお父様に対して感じていた。
(駄目だ……速すぎる。こんなの『ツバキ』を出しても防ぎきれる訳がない)
私は剣術に関してはからっきし。ずぶのド素人だ。お父様の剣に対抗してこちらが剣を作っても、技術の差によって圧倒されてしまう。剣の性能でいくらこちらが勝っていたとしても、両者の技量の差がそれを覆すだろう。
(……だったらっ!)
剣で勝てないのなら、剣で勝負しなければいい。
私は膨大な魔力を消費し、右手の『影法師』に形を与える。
「影法師──月影!」
巨大な鉤爪をイメージした手。漆黒の巨手がお父様に向けて伸ばされる。
(掴んでから吹き飛ばす!)
伸ばされた右手が握られ、お父様の体が包み込まれる。
……はずだった。
返ってきたのは虚空を掴む感触。
「…………っ!」
お父様は『月影』の包囲に対し、地面を滑ることで回避していた。
正確に言うならば、地面を滑るように、だろうか。まるで蛇のように低い姿勢で『月影』をかわしたお父様はそのまま背中が地面に触れそうなほどの低姿勢から斬撃を放ってくる。
「ぐ、あっ……」
攻撃直後の隙を突かれた形になった私は左肩を下から突き上げるように切り裂かれる。これも浅い攻撃だが……お父様、とんでもない身体能力だ。あんな無茶苦茶な体勢からでも攻撃が放てるのなら、どこから攻撃が飛んできてもおかしくない。
これほどの戦闘力を持っていてなんで料理人なんてしていたんだよ。本当に。
「ルナっ……逃げろ……! 俺の目の届く範囲から、今すぐにっ!」
お父様の必死の説得。
なるほどね。確かに、これだけの戦闘力を持っているのなら納得の台詞だ。
だけど……
「……足りないよ、お父様」
この程度で私が尻尾を巻いて逃げ出すと思っているのなら、それは私を舐めすぎだ。確かにお父様は強い。だけど、そんなものは今まで相対してきた敵に比べればまだマシだ。
私を絶望させるにはまだ、足りない。
「すぅ……」
力を込めろ、魔力を流せ、意識を集中しろ。
ここまで来たんだ。やっとここまで来たんだ。
この機会、この瞬間だけは……
「はぁ……」
──絶対に逃さない。
「…………っ!」
呼吸でリズムを整えた私は再びお父様に向けて疾走する。
立ちふさがる強大な壁、お父様という最大の敵を乗り越える為に。




