第294話 成り損ないの少女
全体の一割。
成功例と同じ割合で存在するとされる吸血鬼の成り損ない。
それが今、私の目の前に立っている。
獣のように喉を鳴らしながらこちらに警戒の視線を向けている『彼女』はいうなればノノとネネの姉妹だ。とても良く似た容姿をしているが、その雰囲気は天と地ほどの差がある。
まさしく檻から解き放たれた獣の如き威圧感を放つ少女。
出会い頭の衝撃に硬直する私に……
──彼女は跳ねた。
体を沈め、バネの要領で力を溜めた彼女はこちらに向け弾丸のように飛び掛ってきたのだ。
「…………ッ!」
その攻撃を交わせたのは単に運が良かっただけだ。
幾度となく死線を乗り越えてきた私は頭が考えるよりも早く回避行動に移っていた。そして……ヒュンッ! と空気が裂ける音が頭上を通り過ぎる。
鋭く伸びた爪は大気を切り裂き、衝撃派にも似た空気の層を作り出す。
──ドゴォォォォ!
激しい衝突音。私の背後にあった石造りの建物に幾線にも及ぶ/状の裂傷が刻まれる。
(なんだよこれ……膂力が尋常じゃないぞ)
ようやく頭が現状を把握し始めた私は即座に退避を決める。
どうして彼女がこんなところにいるのか?
先ほどあった爆発音は何なのか?
今、この街で何が起きているのか?
そんなことは全て後回しだ。それよりもまずはこの場を生き延びることに全力を賭ける。こんな化物と戦ってたんじゃ命が幾つあっても足りやしない。
「形成──『ツバキ』」
人は獣に対し、武器を手にして戦ってきた。
ならば私も人類の叡智を手にして戦うとしよう。
「なんとなく分かってはいるんだけどさ、一応聞いとくよ。言葉は分かる? もし良かったらそこをどいてくれるととても助かるんだけど……」
「ふーっ、ふーっ!」
「……まあ、だよね」
血走った目で私を見る成り損ないの少女。
「これはまた骨が折れそうだなっ……と!」
考えている間にも少女が再び真剣のような爪を振るう。
それらをツバキで撃墜しながら、何とかここを抜ける術がないかを考える。
(逃げるのは無理だろうな。さっきの飛び込みを見るに、速度は向こうが上。逃げている間に背中からあの爪を食らうのがオチだ。となれば……)
少女の右手が迫り来る。それを『集中』スキルにより見切った私はツバキで流すようにその攻撃をいなし、右手の掌底を少女の腹部に叩きつける。
「──『発勁』ッ!」
そしてそのまま魔力を掌に集中。
めり込んだ掌底はそのまま少女の体をダンプカーに跳ねられたかのように吹き飛ばす。その勢いのまま近くの民家に突っ込み、見えなくなる。通常の人間なら即死の攻撃だが……
「……やっぱり駄目か」
少女は自ら空けた大穴から無傷のまま戻ってくる。
吸血鬼の持つ『再生』スキル。成り損ないとはいえ、すでに大量の血を吸っている彼女は吸血鬼よりも吸血鬼らしい。その回復力さえも。
(とはいえ『再生』スキルは魔力を過剰に食う。攻撃し続ければいずれその種も切れるはずだ)
問題があるとすれば、それは向こうの魔力が尽きるまで私が向こうの攻撃をただの一度も受けることなく捌き切ることが出来るかということ。
今の私はノーマルモード。あの常識外れの攻撃を一度でも受ければそれだけで絶命してしまう危険がある。いかに単調な攻撃といえど、それが脅威であることに変わりは無いのだ。
「難易度は高いけど……やるしかない」
両手の拳をぶつけ、覚悟を決める。
魔力を練り上げ、その瞬間を待つ。
先ほどのカウンターを警戒してか、今度はなかなか近づいてこない。しかし時間が進むごとに少女は我慢に負けたのか、先ほどと同じように一直線にこちらに駆け出してくる。
(ここだ……っ!)
私に勝ち目があるとすれば、それは向こうの攻撃に理性がないということ。少女の中にあるのは暴力的な獣の本能のみ。
(故にフェイントの類は一切存在しない。私はただお互いの最短距離にさっきの一撃を置いておくだけで良い)
私が狙うのは先ほどよりも更に深い一撃必殺のカウンター攻撃。
次は掌底で向こうの腹をぶち抜いてやるつもりで……
「……え?」
私が一歩踏み出した瞬間、少女は加速した。
「なっ……」
こいつ、まさかさっきまで全力じゃなかったのか!?
脳裏を過ぎった衝撃に引きずられるように体勢を立て直す。しかし、超高速の攻防の中で読み違えた間合いはそう簡単に修正できるものではなく、私はもろに少女のタックルをその身に受けることになる。
「ご、ほっ……!」
腹部にめり込む圧倒的な膂力に体が宙を浮く。
最も脅威となる爪は何とか逸らすことが出来たが、少女の勢いそのものまでは相殺しきることが出来なかったのだ。
そのまま大相撲の寄り切りのように押し流される。この小さな体のどこにそんな膂力が存在するのか、すでに地から足を離した私に抗う術があるはずもなく……
──ドゴォォォォォォォォォッッッッッ!
さきほどのお返しだといわんばかりに建物の外壁へと叩きつけられる。
壁にめり込むほどの衝撃に一瞬意識が飛ぶ。次の瞬間、私が目にしたのは私の眼前に迫る少女の牙だった。
長く伸びた犬歯が私の首元に食い込む。
不思議と痛みはなかった。
「あ……がっ……!?」
その代わりに与えられたのは視界が歪むほどの酩酊感だ。
体から力が抜け、妙な気持ち良さが全身に広がっていく。
(これが……『吸血』スキルか……っ……)
震える足では立つことすら困難になり、私は自ら少女に体を預けるように寄りかかる。まるでこの身を捧げるかのように。
(これは……まずい、力が……抜ける……)
ずぶずぶと沈みこむ犬歯が血管を切り裂き、血を噴出させる。
──喰われる。
そう思った瞬間のことだった。
「きいぁぁぁぁああああああああああああああああッ!」
突然、甲高い悲鳴を上げて仰け反る少女。
後ずさり、口の端から私のものと思われる血を溢す少女は私を一瞥し、そのまま踵を返して夜の街に消えていく。
あまりにも急な出来事に私はそれをただ呆然と見送ることしか出来なかった。
「たす、かった……?」
首元に手を当てると、べったりと血が付着する。どうやらかなり深く噛み付かれていたらしい。あのまま血を吸われていたら私もそこに転がっている男達のようになっていたかもしれない。そう思うと遅れて恐怖がやってきた。
しかし……どうして彼女はいきなり撤退したのだろう。吸血鬼の血は吸血鬼にとって毒のようなものなのか?
「……いや」
違う。思い返すのはノノとネネと戦ったときのこと。二人はお互いの血を補給し合い吸血モードに入っていた。ならば吸血鬼の血でも吸血鬼は吸えるということのはずだ。
(けど、ネネとノノは特殊な生い立ちだ。むしろそっちが例外だった可能性もあるか)
「どっちにしろ今考えることじゃないか。今は……」
思考を打ち切り、前を向く。
どういう経緯で彼女が檻から放たれることになったのかは分からない。
しかし、この状況を利用しない手はないだろう。
「もう少しだ」
薄く笑みを浮かべ、走り出す。
お父様へと続く道。その終わりが見え始めていた。




