第292話 夢幻の世界
どこまでも深く落ちていく感覚。
方向感覚は消え、ただただ宙に浮いているかのような錯覚だけが私を包み込む。まだ私が私になる前のこと。祝いの席で酔っ払った親戚のおっさんに酒を飲まされた時の感覚に似ているかもしれない。
ぐわんぐわんと揺れる視界の中央に、その二人はいた。
「対象の視覚情報をかく乱し、平衡感覚を麻痺させる魔術──それが『夢幻世界』、リリエットの持つ固有魔法さ」
「すっごく気持ち悪くなると思うけど、体自体には何の影響もないから安心してねっ!」
アポロの肩に腰を下ろし、その頬に手を付く光の妖精、リリエット。
どうやら『干渉』することに特化した光系統の魔術で私の視界にノイズを発生させているらしい。魔法抵抗力の低い私に対してこれは有効な攻撃だ。
(この瞬間に攻められたら……まずいっ!)
今の私はノーマルモード。『再生』スキルが発動していない今ダメージを食らうわけには行かない。
「ぐっ……!」
「あっ、無理に動こうとしない方が良いよ。私の『幻想世界』は視覚をを通して精神にも影響を与える魔術だから。下手に動くと……」
体勢を立て直そうと地面に右手をついたその瞬間、
「──心が壊れちゃうよ?」
私の右腕が指先から粉々に砕けていった。
「人間は周囲から情報を得る際に、その90%近くを視覚に頼って生きている。幻覚とはいってもかなりリアルに感じるでしょ? それは貴方の脳が受け取った視覚情報を本物として処理しようとしているから。見えてしまうものは本物に、逆に見えないものは存在しないように感じる。たとえそれが自分自身の体だとしても」
軽くなった右腕はリリエットの言うとおり、どこまでもリアルな情報として私に伝わってくる。消えた感覚に常人ならパニックに陥るだろう。
「……甘く、見るな」
「んにゅ?」
だが私はあいにく普通の人間ではない。
片腕が消える? そんなの今までに何度も経験してきた。
「この程度で私が止められると思っているならお笑いだね」
「おー、凄いねぇ。本当に右手がなくなったみたいに感じてるはずなのに、動揺すらしないなんて。鋼みたいな心の強さだね。でも……どこまで持つかな?」
「────ッ!?」
リリエットの口元が薄く歪んだその瞬間、私の消えた右手、更には両足の先から同様に感覚が消えていく。
「早めにギブアップすることをお勧めするよ。『幻想世界』は精神汚染系の魔術の中でもかなりえぐい方だから。妖精が使う魔術だしね」
そして、その感覚はどんどんと私を侵食していった。
「これ……まさかっ!」
「気付いた? 気付いちゃった? そうだよ。私の『幻想世界』は貴方の全身まで消し去ることができる。これがどういう意味か分かる? 貴方は貴方自身がこの世から消え去ったと誤認することになるってことだよ」
ご丁寧に解説してくれるリリエット。その間にも私の体はどんどん私から離れていく。両足から上ってくる氷に触れているかのような感触はゆっくりと私を浸し、太もも、腰、へそまで上ってきた。
「自我の喪失。それがこの魔法の本質にして真髄だよ」
そして、その感覚は私の全身を包み込み……
「待った、リリエット」
全てが終わる、その寸前にアポロが静止の声を上げた。
「やりすぎだよ、リリエット。僕達はルナを廃人にしたいわけじゃないんだから」
「分かってる分かってる。お友達になりに来たんだよねっ!」
アポロの肩からぴょんと飛び降りたリリエットはそのまま空を飛び、私の元までやってくる。小さな体からは考えられないほどの魔力量を内包しているのが観て分かる。
他種族の追随を許さない魔力親和性と、独自の固有魔法を保有する種族。それが精霊だ。魔力との相性が良すぎて体を構成する物質のほとんどが魔力という変り種の種族。私や長耳族のように魔力が見える目が無ければ視認することも出来ない伝説のような種族なのだが……
(アポロにはこの子が見えている……? 一体どうして……いや、それより今はこの状況をどうするかだ)
幸いにも向こうは私にトドメを刺すつもりはないらしい。体の感覚が半分以上消え去ったが、まだ敗北したわけではない。
「さあ、お友達になりましょうっ! ルナちゃん!」
「友達になろうって……それ、本気で言っているの?」
「うん! 私のこと見える人ってそんなにいないからね。ルナちゃんは数少ない私の『お友達になれる人』なの!」
にこにこと嬉しげに、楽しげに笑みを浮かべるリリエットからは敵意を感じない。恐ろしい魔法の持ち主だが……敵ではない、のか?
「お友達になったら私を見逃してくれる?」
「んー、私としてはそれでもいいんだけど……」
少し困った表情のリリエットは後ろを振り返り、アポロを見た。
それに対するアポロの反応は淡白なものだった。
「駄目だよ。僕達は依頼を受けてここに来たんだ。報酬ももうもらってる。信頼を何よりも大切にする冒険者として、ルナを見逃すことは出来ない」
「だってさー、ごめんね?」
「まあ、そうでしょうね」
だろうとは思っていたさ。アポロが私達の前に立ち塞がった時点でね。
問題はこの状況をどう打破するかだけど……
「無駄だよ、ルナ。リリエットの魔法はすでにルナを捕らえてる。そこから抜け出すのは不可能だ。初見殺しで悪いけど、そのままじっとしていてもらうよ」
「じっとしていて、ねえ。悪いけど……」
今の私の視覚情報は当てにならない。だからほとんど勘だ。
「それは出来ない相談なんだよ」
感覚の残る左手に魔力を集中。聞こえてくるアポロの声を頼りに私は『影槍』を放つが……
「悪いね、ルナ。ここは射程外だ」
空を切る手応え。そういえばアポロには迷宮攻略の際に私の手の内をかなり詳細に明かしていたのだった。
「くそっ……!」
毎度のことだが射程距離の短さが弱点だな、私。
『舞風』で飛ばせる道具もない。これは……ちょっとまずいかもしれない。
「諦めた方がいい。ルナが降参すると誓ってくれればすぐにでも解放してあげるから」
「降参なんてしない。出来るわけがないだろっ!」
ここで諦めるということは即ち、父親を見捨てるということだ。
その選択肢だけは私にはない。
「……他人の家の事情に口出しするつもりはないけどさ、君の父親ってのは君がそこまでして守る価値のある人物なのかい? 僕にはそうは思えないけれど」
「アポロは孤児だもんねー」
「それは関係ないよ、リリエット。僕にだって家族同然に思っている皆がいる。彼女達のことを思えばルナが家族に執着する気持も分からないでもない。でも……彼は君を一度裏切っている。それも最低最悪の形で。子供を売るなんて、親として許される行為じゃない」
「…………」
「だから、ルナ。君は自由に……」
「……黙れ」
「……え?」
アポロの言葉を遮る私の声は、自分自身でも驚くほどに低い声だった。
「口出しするつもりはない? なら黙って見てろよ」
ふつふつと湧き上がるこの感情に自然と口調が荒くなる。
「親として許される行為じゃない? 知るか。私はもうあの人を許してる。外野が横から口出しするな。これは私達の問題だ。私達家族の問題だ」
認めよう。リリエットの固有魔法は驚異的だ。
普通にやっていたら抜け出すことはまず不可能だろう。
だから……
「どいつもこいつも知った風な口ばかり。いい加減うざったいんだよ」
力ずくで……押し通すっ!
「道を開けろ、アポロ。私はお父様に会いに行く」




