第260話 誰にでも許せないことはある
私が冷静になるのと双子がシャワー室から戻るのにはほとんど同じくらいの時間が必要だった。
「お待たせ。あれ……泣いてるの? ルナ?」
「いや、なんでもないよ。これは……そう。ただの汗だから」
「それなら早くシャワー浴びた方が良いね」
無邪気な表情でそう言うネネ。
やめてくれ、そんな無垢な瞳で見られるとようやく落ち着いた罪悪感ががががが。
「……本当に大丈夫なのです?」
「うん。気にしないで。それより本当に私が使っちゃっていいの? もう一人の人の分は……」
「ああ、それなら心配はいらないよ。たぶん今日は帰らないんだと思う。良くあるんだよね。最近は特に忙しくしているみたいだから」
「あ、そうなんだ。それなら……」
遠慮なく、そう言おうとした直後のことだった。
玄関の方から扉が開く音がして、疲れきった男の声が聞こえてきた。
「……今、戻った」
それは葉擦れのように低く、掠れた声だった。
私はその声に聞き覚えがあった。だが、どこで聞いたのか、それを思い出すことが出来なかった。特徴的な声だが、その声に対する思い出が全く浮かんでこないのだ。
──まるで脳が思い出すことを拒絶しているかのように。
そして……
「…………ッ!」
その男が居間にやってきた瞬間、私は見た。
そして、思い出した。この声の主が誰であったのかを。
「なんだ? 客が来ているのか?」
真っ黒なダークコートに身を覆う細身の男。
その姿、その顔には覚えがあった。
「なっ……!?」
そして、私の顔を見た瞬間、向こうも気付いたらしい。
「お前っ! どうしてこんなところに……ッ!」
咄嗟に後ずさり、私から距離を取ろうとしたのだろう。
だが……もう遅い。
「────」
射程5メートル圏内。
そこは私の殺傷可能距離だ。
きっと私は「死ね」とか「殺す」と言った意味の言葉を発したのだと思う。
しかし、今の私にはそれを理解することさえ出来なかった。
ただ純粋な衝動だけが私を支配していた。
まるでマグマを口から流し込まれたかのように全身が熱く燃えていた。
コンマ数秒のラグを置き生成される『ツバキ』。
私の持っている技の中で最も速く、最も殺傷能力の高い型だ。
その漆黒の刃は真っ直ぐに男の喉元まで伸びていき……
「──『奏剣』ッ!」
「……『葬剣』っ」
ヒュンッ! という甲高い音と共に上方へと弾かれた。
手元に残る痺れに、視線を向けると……
「……させないのです」
見れば手に漆黒の剣を出現させたノノがそこにいた。
僅かに歪曲したそれは曲剣と呼ばれる形だった。日本刀をモデルにした私の『ツバキ』と非常に良く似ている。あの剣で私の刀を弾いたのか?
……いや、違うな。もしそうなら向きからして弾かれる方向は逆だったはず。しかもノノとは距離が離れすぎだ。つまり……
「何をしているのよルナっ!?」
私を挟んで反対側に立つネネ。恐らく彼女が私の攻撃を弾いたのだ。
だがノノと違ってネネには目立った武器がない。手にも、足にも私の攻撃を防いだ何かが見当たらなかった。
何かをされたのは確実なのだが、その正体が分からない。
だが私にとってそんなことは問題ではない。
「……一度落ち着いて話をしないか?」
「──ッ! どの口がそんなことをほざきやがるっ!」
目の前の男に因果応報というに相応しい死に際を与えてやる。
それだけが今の私の願いだった。
「待って頂戴、ルナ! 私達が何か至らぬことをしたなら謝るわ! だからひとまずその剣をおろして!」
明らかに強張った声のネネが叫ぶ。
……確かにこのまま続けようとすれば彼女達に再び妨害されることは明らか。そのまま戦闘になれば二人を傷つけてしまうかもしれない。それは駄目だ。それだけは駄目だ。
彼女達にはなんの恨みもないどころか恩さえあるのだ。それを仇で返すようなことだけはしたくない。
「……分かった」
最終的にひとまずこの場で戦うことを諦めた私は魔力を霧散させ『影法師』を解除する。それを見てほっと息を漏らすネネ。ノノは私が武器を消してもまだ影の曲剣を作ったままだった。
「ノノ、もういいのよ」
「…………」
「ノノ!」
ネネの言葉にようやく曲剣を消すノノ。
その消え方も私の『影法師』に良く似ていた。
今まで出会ったことがなかったから軽く驚いているのだが……間違いない。ノノは私と同じ影魔法の使い手だ。
私が『影法師』と名づけているこの魔法は実は闇系統の特化魔法、影魔法と原理は全く同じもの。つまり格好良い名前を付けてはいるものの、それなりの割合で同等の使い手が現れる凡庸な魔法なのだ。
その人固有の魔力性質に合わせチューニングされたオンリーワンの固有魔法とは違う。とはいえ、それなりに熟練した魔術師としての腕前が必要になるため全く凡庸な技とも言えないのだが……それはともかく。
(……二人の実力が見えない。もしかしたら今の私のままではそもそも勝てない可能性もある、か)
冷静になってくると状況を分析することも出来てくる。
というより一拍置いた今となってはなぜ自分があれほど激昂したのかすら良く分からなくなってしまっていた。妙な使命感に突き動かされたとも言うべきか。
改めて視線を向け、男を見る。
「…………」
言葉を探している様子の男に苛立ちが募る。
あの時もこいつはそうだった。まるで自分が被害者であるかのように困った顔で私を見る。その顔に私はどうにも嫌な気分が湧き上がるのを抑えられない。
「……先に言っておく。私はお前を許したわけじゃない。ネネとノノがいるから剣を下ろしただけだ」
「……分かってる」
どうしても口調が荒くなる私に……
「例えこの場で殺されたとしても文句は言わない。抵抗はするがな。そうする権利がお前にはあるし、それを受ける義務が俺にはある。被害者はお前で、加害者は俺なのだから」
その男、シュルツ・サドラーは以前に私が言った言葉を持ち出してくる。
それはあの時私が言った言葉。
私が奴隷で、彼が奴隷商人だったあの時に言った言葉だった。




