第242話 未来へ
「ルナ、暑くないか?」
「大丈夫。今日はそんなに日差しも強くないし、ちゃんと日傘もあるから」
徐々に夏の暑さを発揮し始めた七月末。
私はノアと共にとある場所を訪れていた。
それは……
「なかなか会いに来れなくてごめんなさい……マリン先生」
そっと指先で撫でるのはマリン先生のいる墓石だ。
ここに来るのは二度目になるが……やっぱり辛い。胸が締め付けられるような痛みを覚えている。
じんわりと滲んでくる涙を必死に耐える。
先生の前でだけは、笑顔でいたかったから。
「ママ……ごめん。ノアは研究をやめることにしたよ。これでもうママに会うことは二度となくなるけど……これが正しいことなんだと思う」
私と同じように優しい手つきで墓石に触れるノア。
「誰かを傷つけるような結果をママは絶対に喜ばナイ。だから……ノアは決めたよ。ノアは未来に進むことにする。ここにいるルナと共に」
確かな口調でそう告げるノアにもう迷いはない様子だった。
ならばその道を示した私も覚悟を決めよう。
「安心してね、マリン先生。ノアのことは私がちゃんと見守ってるから。マリン先生の代わりに、降りかかる全ての災厄からノアを守ると誓うよ」
それが貴方に返せる唯一の恩返しだと思うから。
「む……その言い方はなんか嫌だぞ。ノアの方が年上なのだから守るのはノアの役目ダ。実際、ノアの方が強いのだしな」
「え? 戦って勝ったの私じゃなかった?」
「ルナはもう血を吸えないだろう。だったらノアの方が強い」
まあ、確かに吸血スキルを封印したら勝ち目なんてゼロだけどさ。
「んー……それなら困ったときはお互い様ってことで」
「そうだな。それが良い。困ったことがあればすぐに言うんだぞ」
「分かってる分かってる。私もようやく誰かを頼るってことを覚えたばかりだからね。心配はいらないよ」
疑いの目を向けてくるノアに半笑いで返す。
こいつ、絶対信じてないな。確かに一人で突っ走るところはあるかもしれないけど、それはもう性格の話じゃん? どうしようもないよね。
「そういえばマリン先生のお墓をアインズから移してくれたのってノアだったんだね。親族の方が強く希望したとは聞いてたけど」
「ん? ああ、そうダ。イーガー家は葬式費用すら惜しむつもりだったようなんでな。その辺はノアのポケットマネーで賄った。一体本家の連中はどういう神経をしているのやら。多分、存在そのものを抹消したかったんだろうな。キーラがママのことを知らなかったぐらいだし」
「…………」
愛と祝福を受けし者……か。マリン先生の人生は墓石に書かれているほど煌びやかなものではなかったってことらしい。
長い年月を経て、私はようやくマリン先生のルーツを知ることが出来た。
「……ママは意思の強い人だった。家を追い出された後もイーガー姓を名乗っていたのはきっと認めてもらいたかったからなんだと思う。努力して、努力して、それでも届かなかった壁を何とか這い上がろうとしていた」
寒いわけでもないのに厚手のコートをぎゅっと引き寄せるノアが何を思っているのか、私には少しだけ分かるような気がした。
「時々思うんダ。ママはノアのことを本当はどう思っていたのかって。だってそうだろう? ノアは物心ついた時から何でも出来た。ママの目指していた治癒魔法士だって選択肢の一つにあったんダ。そんな娘を見てママがどんな気持ちだったのか……ノアは一度も聞くことが出来なかった」
ふと空に視線を向けるノア。
そこにはどこまでも澄み渡る晴天が広がっていた。
「……怖かったんダ。もしもノアがママの重荷になるような存在だったらと思うと……どうしようもなく怖くて体が震えてしまうんダ」
だが、それとは裏腹にノアの表情は暗い。
マリン先生と喧嘩別れになってしまったというのも一つの原因なのだと思う。
私にはその傷を癒す術はない。それはきっとどんな優秀な治癒魔法士だろうと治せない傷なのだ。
「……マリン先生がノアを重荷に思うわけないじゃない。マリン先生はそういう人じゃない」
「分かってる。分かってるが……人の心は魔術と違って複雑だろう? いろんな感情が混ざり合って真っ黒に染まってる。その中にノアを厭う気持ちが1%ぐらいはあったかもしれナイ」
「…………」
「もしかしたらノアはそれを確かめたかったから過去に戻ろうとしていたのかもしれナイな。聞けなかった答えを知るために」
ここでそれを否定するのは簡単だ。
ただ一言、そんなことないと言えば良い。
だけどそんな言葉をノアは求めていない。私からの言葉では駄目なのだ。マリン先生本人でなければ、この傷を癒すことは出来ない。
だから……
「……私はノアが未来を選んでくれて嬉しかった。一緒にいてくれるって言ってくれて嬉しかった。私を守ってくれるって言ってくれて嬉しかった」
私はその傷を癒すのではなく、埋めることにした。
それはノアが本当に欲しかったものではないのだろう。
それでも人はそうすることでしか痛みを忘れることが出来ないのだとも思う。
「どんなに願っても過去をなかったことには出来ない。例え時間を巻き戻したところでその人の記憶は消えないんだから。だからノアのその傷が癒えることは永遠にないと思う」
「……そう、だよな」
「でも……」
辛そうな表情のノアに視線を向け、告げる。
私の正直な気持ちを。
「その傷を一緒に抱える事は出来るよ。私もノアと同じ痛みを知っている。だから心配しなくて良い。ノアは一人じゃないんだから」
それは傷口を舐め合うただの馴れ合いだ。
だけどそれの何が悪い? 人は一人では生きていけない。痛みを知っているからこそ人は人に優しく出来る。それこそが最も大切な感情なのだ。
「未来に進むって事は別に過去を忘れろって意味じゃない。過去があるからこそ未来があるんだしね。だから……時々はここで立ち止まっていよう。気の済むまで後悔しよう。私も一緒にいるからさ」
私とノアの友情を誰にも否定させたりしない。
歪で、不恰好で、不安定かもしれないけど……それでもこの関係性だけは誰にも譲れないのだ。
「……ルナはお人好しだな」
「友達を大切にするのは当たり前だよ。別に特別なことじゃない」
「友達……か。お前はまだノアをそう呼んでくれるのだな」
「もちろん。言っておくけど私ってしつこいから。ノアが私を嫌いになっても私はノアのことを嫌いになんてなってあげないからね」
「ははっ、そうだな。お前はそういう奴だった」
私の宣言にノアはそこで始めて笑みを浮かべた。
うん……やっぱり女の子には笑顔が一番似合うね。
「さて……あまり長居してもルナが可哀想だ。そろそろお暇するとしよう」
「あれ? もういいの?」
「ああ……」
先に帰ろうとしていたノアが振り向き様に言う。
「──もう、大丈夫だ」
優しく慈愛に満ちた表情で。
それはいつも見ていたマリン先生の笑顔にそっくりで……私はまた胸の奥が熱くなるのを感じていた。
もしかしたら私こそが一番過去を引きずっているのかもね。
トレードマークのコートを風にたなびかせながら歩くノアを目に、私はそんなことを思うのだった。
ノアと二人で歩く帰り道。
師匠の家にでも寄ろうかと話していた時のことだった。
「あ、姉上っっ!」
「え? ……ルカ?」
突然、息を切らせながら走ってくるルカの姿が見えた。
「ルカ、一人なの? 危ないから日中でも一人歩きはしないようにってあれほど……」
「それどころじゃないんですよ! 姉上!」
注意しようとしたところをルカの剣幕に止められる。
普通の様子ではない。明らかに何かがあった様子だ。
「落ち着いて。何があったの、ルカ?」
「それが……先ほど学園長さんが家に来て……それで……」
学園長? グラハムさんのことか?
一体何の用事で……はっ!? まさかまた師匠が何かしたのか!?
これだ! と思わず唸るような答えを予想した私に……
「父上が……見つかったと報告が」
「………………え?」
ルカは私にとって予想外の言葉を告げるのだった。
第4章、完!




