第231話 本当の戦いへ
吸血モードに入った瞬間、私は駆け出していた。
人間が出せる速度を超越し、弾丸のような速度でノアへと迫る。
「────ッ!?」
私が眼前に迫り、そこでようやくノアは気付いたようだった。
──自分が殺されそうになっていることに。
「うっ、ああああああああっ!?」
悲鳴と共にノアが即座に術式を展開する。
虚空へと消える姿に私は即座に『感知』スキルを最大限まで稼動させる。不要な視覚情報を、瞳を瞑ることで遮断し、嗅覚と聴覚に全神経を集中。そして……
「……そこか」
右足に影を纏わせ、強く地面を叩き付けるようにして方向転換。
ノアが現れたその場所に全速力で向かう。
「っ……!」
コンマ数秒のタイムラグを置いて迫る私にノアが目を見張る。
どうやら今の私の状態を知識としては知っていても、実感としてはまだ理解出来ていないらしい。
「それで逃げたつもり? ほら……手が届くぞ」
魔力を右手に集中。まるで怪物の鉤爪のように伸ばした『月影』がノアへと迫る。そして……ガッ! とノアの小さな体をすっぽりと握りしめた。
「はっ!」
そのまま膂力に任せてノアを地面に叩きつける。
その寸前……
「……逃がしたか」
唐突に消えたノアの感触に取り逃がしたことを悟る。
さて……今度はどこに転移したかな。
(感知出来る範囲にはいない。一度体勢を立て直すために大きく離れたな。吸血モードの持続時間も大して続かないだろうし、このまま持久戦を挑まれたら厳しい、か)
ノアから吸った程度の血液量では吸血モードの持続時間は良くて5分かそこらがせいぜいだ。ならば……
「──『変身』」
今度は左腕を丸ごと蝙蝠に変える。
この子たちには血を補給するためのパイプ役になってもらうとしよう。
「その辺から血を集めて来い。十分に集まったら回収する。急げよ」
私の伝令にバタバタと飛び回り始める蝙蝠たち。ひとまず持続時間に関してはこれで問題なし。後は……
「まさかこれで終わりじゃないよな、ノア?」
どこかに隠れているノアを炙り出す作業の始まりだ。
今のうちに逃げるって手もあるけど……久々にこのモードで戦えるんだ。こんな幕引きはいくらなんでも詰まらない。
さあ……もっと私を楽しませてくれよ、ノア。
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「はあ……はあ……はあ……」
校舎から離れた校庭の隅で、木々の陰から荒い呼吸を繰り返しながら屋上の様子を伺う少女が一人。
「……くそっ……」
それは体の震えを抑えようと手首を握り締めるノア・グレイの姿だった。
油断していたわけではない。慢心していたわけではない。侮っていたわけではない。
それでも……あの紅の瞳に睨み付けられた瞬間、体の奥底から堪えようもない恐怖が沸いてきた。自分がまるで家畜にでもなったかのような感覚。自分の生死を握られる感覚。
そうか……これが……
「個体最凶の種族……吸血鬼、か」
瞳を閉じたまま深く深呼吸を繰り返す。
大丈夫。能力差はそれほど離れてはいない。現にこうして距離を取ることには成功した。感知能力と身体能力、それと魔法発現までのタイムラグが明らかに短くなってはいるが基本的に出来ることは以前のルナと何も変わってはいない。
(性能の変化も対応できる範囲内。ならば恐れることなど何もナイ。ノアならやれる。他の愚図には無理でもノアになら……)
自分の魔術師としての能力が突出しているものだとノアは理解している。
ずっと昔からそうだった。周囲の人間には出来ないことが自分には出来た。
自分が周囲より優れていることは理解している。だが、自分の能力が優れたものだと思ったことは一度たりともない。
自分が優秀なのではなく、単に周囲が不出来に過ぎるだけ。
だからいつも思っていた。どうしてこんな簡単なことが出来ないのかと。
「……はっ」
逸れかけていた思考を一笑し、改めて屋上に視線を向ける。
角度の関係でルナの姿は把握出来ないが、まだ恐らくあそこにいるだろう。
ならばどうする? こちらからもう一度飛ぶか?
(『ノアの箱舟』を主軸とするなら視界の良い屋上は絶好のポジションになる。いざとなればまた逃げれば良いだけだしナ。ノアが最も避けるべきなのは閉鎖された逃げ道のない空間でルナと正面から戦闘すること。こんな状況だけは絶対に作ってはいけナイ)
だが、逆に言えばさっきまでと同じように遠距離から一方的に攻撃し続けられればこちらが勝つ。間違いなく勝つ。
(気がかりなのは吸血鬼の持つ固有魔術。特に傷を治す術は厄介だナ。下手をすればこちらの魔力が先に底を付く)
能力的にはこちらが有利。
だが状況を総合的に判断すれば……
(ノアの有利はもう揺らいでいるか? いや……まだ……)
どちらにせよ負けの目がはっきりと見えてきたことに変わりはない。
たった一度、蝙蝠から奇襲を受けただけだというのにこの有様。
「ハハ……面白い」
状況は傾いた。自分の敗北するビジョンが見えてしまったというのに、ノアは楽しげに口元を歪めていた。
果たしてこれまでの人生で、これほどまでに追い詰められた経験があるだろうか? 自分の全力ですら届かないかもしれない難題に出会ったことがあるだろうか?
いや……ない。
ノア・グレイの人生には一度たりとも敗北なんてなかったのだから。
だからこそ……
「面白い……面白いぞ、ルナ・レストン」
ノア・グレイは笑うのだ。
もしかしたら……ようやく自分は全力を出すことが出来るかもしれないと、恐怖を上回る期待に胸を躍らせるのだった。




