第226話 ノアの箱舟
太陽が沈み、美しき満月がその顔を叢雲の隙間から覗かせる。
冬を乗り越え、徐々に暖かくなりつつある季節だというのに、その夜は凍てつくような寒風を運んでいた。
いや……もしかしたらそれは私がそう感じているだけなのかもしれない。
全身で感じるこの寒気も、ただ私が恐怖しているだけなのかもしれない。
なぜなら……
「光あれ──『ソーラ』!」
私の目の前に立ち塞がるのはノア・グレイ。
学園最強と呼んで差し支えない魔術師だからだ。
「くっ……!」
飛来する光の奔流を何とか回避していく。
私の中の吸血鬼の本能が叫んでいた。
この少女だけはまずい、と。アリスよりも師匠よりも、下手をしたら土蜘蛛よりも私にとっては天敵となりえると。実際に戦ってみれば分かる。私の弱点を知るノアの攻撃はさっきから光系統の単一魔術に限定されている。
それがもっとも速く、効率的にダメージを与えられると分かっているからだ。
単に光を生み出すだけの『ソーラ』だが、その最も特筆すべき点はその射程の長さと弾速のスピードにある。
本物の光と比べれば目で追える程度の速度ではあるが、それでもノーマルモードの私ではかわすことさえ難しい。だからこそ、こうして距離を取って着弾までの時間を稼ぐしか出来ないのだが……
(ノアめ。私の射程距離を潰すつもりだな。このままだとジリ貧になる、か)
私の得意な間合いは半径5メートル圏内。
それ以上離れると私の影魔法では届かなくなるからだ。
そして、そのことはノアも知っている。だからこそ射程の長い『ソーラ』で私の動きをまず制限しにきたのだ。
(魔術の腕だけじゃない。戦い方にもちゃんとした狙いがある。天才魔術師は軍師としても一流だったってわけだ)
私としては非常に苦しいこの状況。さて……どうしますかね。
「ルナ。降参するならすぐに言ってくれ。降伏するなら命までは取らないと誓おう」
「魅力的な提案だけど……ごめんね。それはちょっと受けられないかな」
無表情に『ソーラ』の魔術を乱発するノアの光弾を掻い潜りつつ、周囲に視線を向ける。狙うべきは……あの辺かな。
「理解不能だナ。ルナではノアには勝てナイ。それはもうルナも分かっているはずダ」
「勝てないからって諦められるような素直な性格はしてないんでね。それに……ノアだって分かってるはずでしょ。別に私は"勝たなくていい"」
「……お前、まさか」
「悪いね、ノア。私は……負け逃げさせてもらうよ」
部室棟を支える支柱の一つを盾に身を隠した私はそのまま、ノアに背を向け脱兎の如く駆け出した。
それは私の勝利条件の一つ。ここでノアを倒すことが出来れば情報も手に入り、純血派との講和にも近づくベストな結果となるだろう。だけど……
(それは今じゃなくて良い。今、もっとも回避すべきなのは私が独立した状態で純血派に捕まること。仲間には情報が伝わらず、下手をしたら私はそのまま殺されるだろう。アリスに刺客まで放っていた連中だ。いまさら、私の命一つを惜しむはずもない)
だからこそ、ノアが来たのだ。
敵はここで確実に私を抑えるつもりでいる。だったら逆に言えばノアから逃げ切るだけでも私の目的は達成されるのだ。
「……ルナは頭が良いナ。それに自分の能力を過大評価していナイ。それだけの力を持っていながら実に謙虚な自己評価ダ。とても同い年とは思えナイな。だけど……」
背後から聞こえるノアの声。
魔術による射撃だけに注意しながら進む私は……
「一つ忘れているんじゃナイか? ノアには……これがアル」
突然、前方から現れたノアの姿に意識を奪われてしまう。
そうだ……ノアにはこの魔法があった。
「『ソーラ』!」
私の攻撃が絶対に届かない位置から放たれる光の道筋。
しかもさっきよりノアとの距離が近い。これは……当たる!
「ちぃっ!」
咄嗟に外套を脱ぎ捨てた私はそれを闘牛士のマントのように靡かせ、簡易的な盾にする。もしかしたらこれで光を吸収できるかもという発想だったのだが……
「ほう、良い手だナ。だが……そんな薄っぺらい布で全ては防げまい」
ノアの放った魔術は私の即席防具ごと私の体を貫いた。
左の脇腹付近に激痛が走る。だが……耐えられないほどじゃない。
「ぐっ……!」
「まだ鬼ごっこを続けるつもりか?」
腹部を押さえながら走り出した私に、ノアが溜息混じりにそう呟く。
そして……
「仕方ない、か……」
ノアの秘術が、本格的に動き出す。
「《空に咲く・霞む叢雲・宵闇降りて・漕ぎ往く宙船・月の光に・惑う夢見よ──》」
それはノアがずっと研究していた魔術の副産物。
私はその魔術の内容を詳しく知っていた。ノアの研究に付き合って、勉強させられたからだ。以前にこの魔術の使い道をノアに意地悪く質問したことがあったが、その時から私は気付いていた。
この魔術は……戦闘時、特にノアのようなタイプの魔術師が使うと途端に凶悪な性能を発揮すると。
「《──星空遠く・届かぬ指先・星降ることなき定めなら・せめて私を運んで欲しい──》」
長く、重い詠唱が宵闇に溶ける。
詠唱とは世界に捧げる祈りだと言った詩人がいた。
祈り……つまりは願い。魔術にはそれらが込められていると言うのだ。
だからなのだろうか? こんなにも緊迫した場面だというのに、その詠唱に込められたノアの感情に、私は胸が締め付けられるような想いに駆られていた。
咄嗟に振り向き、様子を伺うと丁度ノアの詠唱が完了するところだった。
「《飛翔せよ──『ノアの箱舟』》」
ノアの研究していた秘術、『ノアの箱舟』。
一切の感情を覆い隠したノアの呪文が完成した、その瞬間……
──まるで月が雲に隠れるかのように、ノアの姿は夜の帳に消えていくのだった。




