第213話 慈悲はなく、奇跡は起きない
これまで何度も理不尽な目に遭ってきた。
死ぬかと思ったことだって一度や二度ではない。あの地下迷宮にいたときはそれこそ毎日が命がけのサバイバルだった。
その過酷な環境の中で私は幾つもの対策を作り出し、対処してきた。
だから、ピンチなんて私にとっては慣れたもの。いつものことだった。
だけど……
「もう、終わりか?」
今回は……次元が違う。
すでに真っ暗になった周囲は、戦闘が開始して数時間が経過していることを示している。そして、その間に私が師匠に与えたダメージは……
「はあ……はあ……はあ……」
【マフィ・アンデル 人族
女 32歳
LV27
体力:320/325
魔力:182/210
筋力:320
敏捷:234
物防:4250
魔耐:245
犯罪値:2150
スキル:『鑑定』『システムアシスト』『知能』『器用』『怠惰』『魔力感知』『魔力操作』『魔力制御』『土適性(74)』『光適性(82)』『狒々王』】
僅か……5。
しかも、それだって私が傷をつけたわけではなく、ただの疲労によるステータス減少によるものだ。途中で師匠も私に有効な攻撃手段がないことを見切っていたのか、魔力消費も最小限に抑えて立ち回り始めた。
これではもう、勝ち目なんてない。持久戦に持ち込んだところで、師匠の体力より先に私の魔力が尽きるだろう。
(くそっ……『怠惰』が厄介すぎるっ!)
物理防御特化の『怠惰』の何が強いって、そのコストパフォーマンスの良さだ。体力、魔力を一切使用することなく常時発動するこのスキルは持久戦にこそ真価を発揮するのかもしれない。
今、たとえ師匠がその場に寝転んで居眠りを始めたとしても私は師匠にダメージを与えることはできないだろう。それだけに圧倒的な防御性能を持っていた。
「くっ、そおおおおっ!」
全力で振り抜いた一撃。
だが、それも師匠の腕に触れた途端、ツバキはまるで空間に固定されたかのようにビクともしなくなってしまった。
「はあ……もういい加減諦めろ」
「いや……だ……っ」
「ったく。聞き分けのない弟子だよ」
そう言って溜息をついた師匠は素手で私のツバキに触れると、
「ふんッ!」
ぐいっ、と強引に私を引き寄せ、そして渾身の右ストレートを私の腹部に叩き付ける。咄嗟に影を展開して、ガードしようとするが……
──バギィィィッ!
まるで骨が折れるかのような音と共に、師匠は影を叩き割ってしまった。
特殊なスキルを使ったわけでも、光系統の魔術を使ったわけでもない。ただ純粋な拳の力のみで、私の影魔法を叩き壊したのだ。
「が……はっ……!」
口から血反吐を撒き散らしながら地面を無様に転げ回る。
たった一撃。たった一撃師匠が本気を出しただけで私は追い込まれてしまった。近接戦からのカウンター。それこそが師匠本来の戦闘スタイルだと分かっていたのに。
「ははっ、良い様じゃねえの」
「ぐ……っ」
私を見下ろす師匠は明らかに私を嘲笑っていた。
色欲と吸血鬼という圧倒的なアドバンテージを持ち、まさしく天狗になっていた私の鼻っ柱を隠し玉の怠惰で叩き折る。不意打ち気味に勝利をものにした師匠はさぞ気持ちが良かったことだろう。相変わらず捻くれた性格をしている。
「血を吸ってればもう少し良い勝負が出来たかもな。だが、一人で戦えばお前の力はそんなもんだ。世界を回った俺から言わせれば、お前程度の奴なんてそこら中にいたぜ」
懐から煙草を取りだし、おもむろに口にくわえて火をつける師匠。
彼女は明らかにこちらを舐めていた。これ以上反撃はないと高をくくっているのだ。
「っ……ツバキッ!」
「分かんねえやつだな」
反射的にその隙にツバキを飛ばした私の攻撃はしかし、師匠が軽く手をかざしただけで防がれてしまった。
「力の差はもう分かっただろ。無駄な抵抗はやめてさっさと楽になれ」
つまらなそうな表情で紫煙を吐く師匠。
確かに私と師匠の実力差は土蜘蛛の時以上に隔たれている。勝ち目なんて全くの0。どうあがいても師匠には勝てない。そんなことは分かっている。
だけど……
「私は……もう、見たくないんだ……」
脳裏を過ぎるのは悲しげな表情で私に真実を告げたアリスの姿。
そして、自らに向けられた悪意を前に失意に沈むクレアの姿。
二人のあんな姿はもう……二度と見たくなんてない。
「女の子は……笑ってる顔が一番似合うんだよ……っ」
二人は私に居場所をくれた。帰る場所を用意してくれた。道に迷い、落ち込んだときには傍にいてくれた。仮面を被り、偽りの関係を続ける私に優しくしてくれた。
そんな彼女たちを守りたいと思うから。
私も彼女たちにとって頼りになる人間になりたいと強く思うから。
「勝ち目がないくらいで……立ち止まってたまるかぁぁぁッ!」
ここで勝てば全てが丸く収まるのだ。
負けられない。
負けるわけにはいかない。
全身に力を込め、渾身の拳を師匠に向けて放つ。
だが……
「……お前の覚悟は良く分かったよ」
──勝負というものは、精神論でどうこうなるほど甘いものではない。
私の攻撃をすり抜けるようにかわした師匠はそのまま私の顔面を片手で掴むと勢い任せに地面へと叩きつけた。衝撃に一瞬、意識を飛ばされた私が見たのは……
「勝ち目がないと分かっていながらそれでも戦いを挑む、か。本物の馬鹿だな、お前」
どこか羨ましそうな表情で私を見る、師匠の姿だった。




