第207話 動き始める舞台
「長らくお傍を離れてしまい、申し訳ありませんでした」
出来るだけ礼儀正しく見えるよう、腰を折って頭を下げる。
「クレアお嬢様」
私が仕えるべき主人に向けて。
「それは別にいいわよ。半分は私のわがままみたいなものだしね。それで? 用事はもう終わったの?」
「はい。万事無事に、とは言えませんが私の目標には届くことが出来ました」
「そ。なら、今日から再びよろしくね。ルナ」
「はい。お任せください。クレアお嬢様」
アリスと腹を割って話すことが出来た私はひとまずクレアのお付に戻ることにした。結構長く離れていたからね。とはいっても、学園ではいつも一緒にいたし離れていた時間自体はほとんど大差ないのだけど。
「んー、なんだかこの屋敷も久しぶりに感じるわ。やっぱり我が家が一番ね」
「カレンお嬢様のお屋敷はどうだったのですか?」
「え? カレンの屋敷? あー……あれは、そうね……」
「?」
珍しく歯切れの悪いお嬢様。カレンの屋敷で何かあったのだろうか。
「まあ、世の中には知らない方が良い事もあるってことよ」
一体何を見たのですか……お嬢様。
「それより、これから稽古をするわよ。指導付けて頂戴。ルナ」
「分かりました。それではお飲み物を準備してから参りますね」
「ええ。よろしく」
今日も今日とて勤勉なクレアに従い、彼女の部屋を後にする。
そして、厨房に向かいながら私はアリスとの会話を思い出していた。
(まさか師匠があんなことを考えていたなんてね……予想外だったよ)
アリスが師匠に味方すると決めた以上、私に出来る事は二つに一つ。一つはそのままアリスのついでに師匠の味方をすること。もう一つはグラハムさんの願いでもある講和を目指して師匠を止めること。
どちらにしても、私はアリスとグラハムさん。どちらかと交わした約束を破らなければならなくなる。
とはいえ、私の中ではすでにほとんど答えは出ているようなものだが。
(あれだけアリスの味方をするって言っておいて、今更やっぱりやめますはちょっとアレだしなあ……)
私を信用して本当のことを話してくれたアリス。彼女の信用だけは裏切りたくない。だけど……
(アリスの味方をするってことはイコールで純血派とのいざこざに巻き込まれるってことだ。となると、私はもうクレアの傍にはいられない)
私を信頼してくれているグラハムさんへのせめてもの義理立てとして、クレアの安全確保は絶対条件だ。だが、そうなると私は学園に通うことが出来なくなるわけで……
「……なんなのこの状況。ややこしすぎるでしょ」
頭脳労働は私の担当じゃないってのに。
はあ……でも、この問題はどうしたって避けては通れない。他でもないアリスと師匠の問題なのだ。一度首を突っ込むと決めたのだから、今更引くわけにはいかない。
(……近い内にクレアに言おう。メイドをやめるって)
一体、どんな反応をされるか分からないけれどアリスの味方をすると決めたのだからもうこの屋敷にはいられない。
セクハラさえなければ最高の上司だったクロエさん。
気さくに話しかけて職場に馴染ませてくれたアリッサさん。
新人メイドの私をいつも気にかけてくれた年長メイドのメアリーさん。
そして、誰よりメイドの私に親身になって相談に乗ってくれたクレアお嬢様。
ここにいる人たちは皆(若干一名は怪しいが)良い人ばっかりだ。彼女達に貰った恩義に報いるためにも私はクレアを守らなければならない。
(彼女の護衛である私がクレアを危険に晒したんじゃ職務怠慢も良いところだしね。どっちにしろ、私はもうすぐお役御免かな)
ポジティブに考えればもうこの恥ずかしい格好をしなくて良くなるのだ。元々、給金の為だけに雇われたただの雇用関係なのだし、私が辞めたいと言えばそれを引き止める権利は誰にもない。
だから……
(問題はない。誰にも迷惑なんてかからないし……問題は、ない)
問題はない。その、はずなのに……
「…………」
思い返すのはここ数ヶ月の出来事。
たったそれだけの時間だったけどそれは私にとって輝かしい日常だった。
クレアと共に屋敷で暮らし、学園ではカレンやセスと共に勉学に励み、近くには愛すべき幼馴染達もいた。これ以上ないってほどに恵まれた環境だった。
それを全て捨て去らなければならないとなれば、後悔しないはずがない。
だから……この葛藤は自然なもののはずだ。アリスを裏切ったわけじゃない。
「あら、遅かったわね。ルナ」
訓練場に着いたところで、すでに汗を流しているクレアと合流する。
クレアの元を離れるならば早い方が良い。時間が経てば経つほど離れにくくなるし、私が動ける時間が減ってしまう。それは分かっていた。
だけど……
「申し訳ありませんお嬢様。茶葉の種類に少々迷ってしまいまして」
私はすぐにクレアへと告げる事が出来なかった。
メイドを辞めれば学園に通えなくなるし、もう少しだけ様子を見ても良いだろう。そんな言い訳を必死に考えて。
だが、私は後にこの選択を後悔することになる。
もしも、もっと早くにクレアから離れていれば、と。
もしかしたらこの時にはすでに事態は手遅れになっていたのかもしれない。だが、それでも私は思わずにはいられなかった。
なぜなら……
数日後の学園にて、
「…………え?」
「? どうかされましたか、お嬢様?」
個人用に用意されたロッカーの前で立ち止まったクレアに視線を向ける。
微かに震えている彼女の視線は真っ直ぐに自分のロッカーの中に注がれていた。気になった私は失礼と思いつつも、彼女の肩越しに中を確認し、そして……
「……何よ……これ……」
──絶句した。
彼女がいつも使っていた教科書や、授業道具。その全てが……
「何なのよ、これはっ!」
まるで破砕機にかけられたかのように滅茶苦茶に壊されていたのだ。
それは明らかに敵意ある誰かからの"攻撃"だった。
そう。それは私が一番に恐れていた事態。
その光景を見た瞬間に、私は悟った。
──ついにクレアまでもが、純血派のターゲットにされてしまったことを。




