第173話 涙は枯れず、思い出は朽ちず
春風が肌を打つ。
すでに夕焼けが広がる時間帯とはいえ、まだ太陽光が残っているため、私は日傘を差して街頭を歩いていた。道案内として、アンナとニコラが同行してくれている。
イーサンは訓練、デヴィットは明日の仕事の準備があるということで早めに解散となった。出来れば一緒に行きたかったのだけれど、こればかりは仕方がない。
だんだんと少なくなる人影に、私は目的地が近い事を悟った。
「……もう二年以上になるんだよな」
ぽつりと漏れたニコラの声に、私もアンナも何も言うことが出来なかった。
彼女たちはずっと前に理解していたことなのだろうけど、私からしたら始めて自分の目で確認する現実だ。緊張するなと言うほうが無理だろう。
「お姉様、寒くはないですか?」
「ううん。大丈夫」
「でも……少し震えてますよ?」
「…………」
私を心配そうに見上げるアンナの頭にぽんと手を置いて、軽く動かす。
アンナは昔と変わらず良い子だ。自分だって何度も辛い経験してきたはずなのに、それでも他人を気遣える心の強さを持っている。
だからこそ、私も私らしくアンナの理想のお姉様でいなくてはならない。
それがあの人から託された私の役目だと思うから。
「…………」
優しく肌をなぞる風に混じって花の香りが鼻腔をくすぐる。
それは懐かしい香り。孤児院の近くに植えてあった木と全く同じ香りだった。
ただの偶然か、それとも彼女を良く知る人物があえてこの場所を選んでくれたのかは分からない。だけど、私は懐かしい気持ちを抱えたまま……その場所に辿り着くことが出来た。
「お久しぶりです……マリン先生」
ゆっくりと膝をつき目の前の墓標へと視線を合わせる。
ここは集団埋葬地。死者を弔う場所だ。
そして……私のすぐ目の前、灰色の墓石の下に私の最愛の先生が埋まっていた。
『愛と祝福を受けし者、マリン・イーガー、此処に眠る』
「……っ!」
その文字をこの目で見た瞬間、ぐらりと視界が揺れた。
膝をついていて良かった。もしも立ったままだったら私は倒れていたかもしれない。それぐらいのショックを私は受けていた。
事実として聞いてはいた。だけどそれは聞いていただけだ。私は心のどこかで、マリン先生はまだ実は生きているのではないかという淡い期待を抱いていたらしい。
そんなことあるわけ……ないのに。
「ルナ……」
ニコラが私の名前を呼ぶ声が聞こえたが、すぐに返事をすることは出来なかった。彼の話によるとマリン先生はアインズで葬儀を上げた後、この王都で埋葬が行われることになったらしい。
どうやら先生の親族がそのことを強く望んだようのだが、滅多に行われることではないと葬儀屋も驚いていたらしい。愛と祝福を受けし者、きっとその言葉に嘘はない。だけど……
「…………っ」
喉が渇いて仕方がなかった。それなのに目元はそれとは反対にどんどん溢れるように濡れてしまっていた。
「先生は……どんな最期だったの?」
しばらく時間が経って、ようやく口を開いた私はそんなことを聞いていた。
聞いても仕方がないとは分かっていても、聞かずにはいられなかった。
「……流行り病だよ。街に病が流行ったとき、孤児院の子供も何人か体調を崩してね。先生はその全員の看病を続けていたんだ。自分が病で倒れるまで、ずっと」
「……そっか」
話を聞いてあまりにも先生らしいな、と思った。
この時代の医療はあまり進歩していない。大きな伝染病の被害などは聞いていないから、その流行り病というのも本当にただの風邪程度のものだったのだろう。
だけど、この世界ではただの風邪であろうともそれだけで人が死ぬ。
もしも……もしも、あの街にきちんとした医者がいたのなら。先生は死ぬことなんてなかったかもしれないのに。
「……先生はさ、治癒魔法士を目指していたんだ。だから皆が病気になったとき、とても心配して看病したんだと思う」
それは確信できる想像だった。
見てもいないのに、孤児院のみんなを心配して走り回るマリン先生の姿が脳裏に浮かんでくる。
「きっと休めって言っても聞かなかったんだろうね。変なところで頑固だからさ、マリン先生は。でも……私はそういうところも含めて大好きだったんだ」
先生と一緒に街を歩いた日のことを覚えている。
私はあの日、努力を続けて精一杯に生きるマリン先生のことを心から尊敬した。あれほど犯罪値の低い人なんて見たことがなかったから、この人は見た目通りに心の優しい人なのだと確信できた。
孤児院に通っている間も、マリン先生は嫌な顔一つせず私を迎えてくれた。いつだって、どんな時だって。そんなマリン先生が運営していた孤児院だからこそ、あの場所は私の記憶の中で今でも輝いている。誰もが笑って暮らしていた、あの日々をこうして思い出すことが出来る。
「それなのに……」
気付けば私は固く両手を握り締めていた。
認めたくなんてない。信じたくなんてない。
だけど……私は認めなくてはならならない。決して変えることの出来ないその事実を。
「こんなのって……あんまりだよ……っ」
私の手から転がり落ちた日傘がその場で回転し、私の膝に当たる。そうして生まれた影に吸い込まれるように私の涙は地面へと止め処なく溢れていった。
誰かの幸せを願い、治癒魔法士を目指した先生がよりにもよって病に倒れただなんて私は信じたくなかった。そんな無慈悲な運命を用意した神様がいるとするならば、私は今すぐにでもそいつを殴り飛ばしてやりたかった。
だけど、運命を決める神など存在しない。
私はそのことを誰よりも知っていた。
大罪の印を与えられ、この地に生きることを許された私には。
だからこそこの憤りは私自身が飲み込まなければいけないものだ。他の誰かにぶつけられるようなものではない。だけど……
「私はっ! まだ何も返せていないのにっ!」
今この時だけは……どうか許して欲しい。
どうして死んでしまったのかと、貴方を罵る私を許して欲しい。
先生……マリン先生……。
「うっ……くっ……あ、ああぁぁ……」
遅くなってしまってごめんなさい。
私は今……
「あああああああああああああああああああっ!!」
貴方の元に、帰ってきましたよ?
だから……もう一度だけ言ってください。たった一度だけでいいから、どうか……
──おかえり、って。
あの優しい声で、もう一度だけ……お願いしますよ……先生。




