第168話 アリスとクレア
師匠の始めた授業は事前に予習していなければ付いて行くことすら難しいレベルのものだった。途中で何度か生徒が質問をしていたが、師匠はそのことごとくを無視。分からないところは帰ってから調べろとのたまった。
なんともまあ雑な授業だとは思ったが、ここはエルセウス魔導学園。未来の王国を背負って立つ人間を育成する場だ。低いレベルに合わせることも出来ないのだろう。
出来の悪い主人のため、休憩時間になると必死に勉強を教える付き人の姿が目に付いた。だけど、うちのお嬢様は優秀なのでそんな必要もない。隣に座るクレアにどうせまた復習か予習を始めるんだろうなーなんて思っていると、
「ルナ、ちょっとついてきなさい」
いきなり立ち上がったクレアは私の返事を待たずにつかつかと歩き出した。
おお、もしかしたら友達でも作る気になったのかと喜んで着いていったのだが……
「ちょっといいかしら。アリス・フィッシャーさん?」
どうにも友好的とは言いがたい口調で前列の席に座るアリスの元へクレアは向かっていた。どうにも嫌な予感がするね。
「……何?」
振り向いたアリスは後ろの私に気付いて、一瞬だけ驚いた表情を見せたがすぐにクレアへと視線を向けた。
「貴方、お爺様のお気に入りなんですってね」
「別にそういうわけじゃないけど……融通してもらったことは確かよ。それが何?」
こくりと首を傾げるアリスに、クレアが再び機嫌悪そうに突っかかる。
「どうして普通に入試を受けなかったの? 本当にお爺様のお気に入りだというならそもそも特別扱いしてもらう必要なんてないじゃない」
「私はこの通りの格好だから。あまり人目につくようなことをしたくなかったのよ」
そういってアリスは自分の耳を指差した。
「長耳族……そういえば、どうしてこの学園に貴方みたいな亜人がいるのかも聞いてなかったわね」
「お、お嬢様!」
クレアの口から出た差別用語に思わず声が出た。
クレアにそれを言わせることも、アリスにその言葉を聞かせることもしたくなかったからだ。だが、クレアは私の制止なんてものともせず話を続けていく。
「私は王都の法律にも明るいの。奴隷であったとしても人族以外の種族はこの都に居住する権利を持たないはずなのだけれど?」
「私は戸籍上、人族として認められているのよ。確かに私の中に長耳族の血が流れていることは否定しないけど、それだけでこの国から追い出すことは出来ないわ」
「へえ。でも、だからと言ってこの学園に入学する必要はないでしょう? 人族の持つ魔術知識を盗みに来たか、同世代の魔術師を測りに来たのか……一体なんの目的があってのこと?」
「それは……」
そこでちらり、とアリスの視線がこちらに向けられたのが分かった。
彼女は私を捜索する代償として、グラハムさんからこの学園で活動することを求められたのだ。確か、学園に箔をつけるためとかそんな理由だったと思うけど、その真意までは分からない。
でも、そういう事情があると分かれば誰もが納得してくれるはずだ。
それなのに……
「それは貴方には関係のないことよ」
アリスは口を噤んだ。
「私がエルフのスパイだと思うならそう思っていれば良いわよ。どうせ無罪の証明なんて出来るはずがないんだから」
「……あっそ」
それ以上アリスから答えを得ることは出来ないと判断したのか、クレアは詰まらなそうに呟くと席へと戻っていった。取り残された私は少しでもフォローしようとアリスに向き直るのだが、
「アリス、さっきはどうし……」
「まだ何か用事?」
「え?」
私が声をかけようとしたタイミングで、アリスもまた私に声をかけた。
今まで聞いたことのないような鋭い声音で。
「用事がないのならさっさと帰ってもらえるかしら。私も暇じゃないの」
呆然とする私に、アリスの確かな拒絶の言葉が届く。
そして、かける言葉を探す間にアリスは席を立ち上がり教室を去っていってしまった。明らかに私を避けている。それは分かったが、その理由が分からなかった。
「なんで……」
これまで私がアリスに冷たく対応することはあっても、その逆はなかった。だから初めてのアリスの拒絶に、私は予想以上に衝撃を受けていたのだ。
立ち尽くす私に、何人かの生徒が近寄ってくるのが視界の端に見えた。
「大丈夫? 顔色が悪いけど」
「え? あ、ああ、うん。大丈夫」
「しかし、冷たい奴だな。何もあんな言い方はしなくてもいいだろうに。やっぱり僕たち人族とは違うみたいだ」
「落ち込まなくて良い。貴族相手にもあの口調を貫いていたんだ。恐らく、誰が相手でもあの態度なんだろうよ」
話しかけてきた三人の生徒。その誰もが男子生徒だった。一人っきりになった私を心配して声をかけてくれたのだろう。親切な人達だなあ。
「ルナ、いつまでそこにいるのよ。さっさと帰ってきなさい」
「は、はいっ、すいませんっ!」
ぼやぼやしているとクレアに怒られてしまった。折角クラスメイトとお話できる機会だったのに、少し残念だ。
「ルナ……それが彼女の名前なのか」
「綺麗な音だ。美しい彼女にぴったりだな」
「ああ、ついに話しかけてしまった。話しかけてしまったぞぉ……っ」
……ああ。うん。やっぱりあの場を離れられて正解だったかもしれないな。
私は背後から聞こえる弾んだ声を今後の円滑な学園生活のため、聞かなかったことにした。




