第160話 この世界には二種類の人間がいる
私がクレアお嬢様の屋敷で仕事を始めてから数日が経った。
だというのに、未だ私はクレアとまともに話をすることさえ出来ずにいる。面接のときに感じた人懐っこさから、すぐにでも話しかけてくると思ったのに少し意外だった。
学園の入学式までそれほど時間がない。だから、出来るだけ意思の疎通を図っておきたかったのだけれど向こうから接してくれない限りメイドという立場の私にはそれも難しい。
だから、クロエさんがクレアに差し入れを持っていくと言った時に私はすぐさまその役目を譲ってもらえないかと頼んだ。クロエさんも宙ぶらりんな私の立場を分かってくれたのか、さして悩むこともなく頷いてくれた。
そんなわけで私は今、クレアお嬢様に渡すための水を小瓶に抱えて訓練場に向かっているところだ。どうやら何かしらの訓練を行っているらしく、疲労回復用にレモンウォーターになっているらしい。こんな洒落た飲み物は師匠の家では考えられないものだね。さすがは貴族だ。
「クレアお嬢様、入ってもよろしいでしょうか?」
一応ノックをして反応を待ったのだが、中からの声はない。
休憩中なのだろうか。ひとまず、中に入ってみようと扉を開けた私は……
「……えっ?」
地面に倒れるクレアの姿を見つけるのだった。
「っ……お嬢様!」
咄嗟に駆け寄って、その華奢な体を抱き起こす。
一体何があったのか、荒い呼吸を繰り返しているクレア。発汗、発熱、脈も少し速い。過度な運動を行った後の症状にも似ているが、意識がないのはさすがにおかしい。すぐにでも治療院へ運ばなければと考えたその瞬間、
「……る、な?」
うっすらと瞳を空けたクレアが私の名を呼んだ。
良かった……どうやら気絶していたわけではないらしい。
「お嬢様、少しお待ちください。すぐに治療院への輸送の手配を……」
「いい……私は大丈夫だから」
抱きかかえようとする私をクレアは振り払って答えた。そして、ふらふらの体のまま立ち上がろうとするので慌ててその肩を支える。
「ひとまず、こちらへ来てください」
そんな体で何をさせるわけにもいかないので、休憩するようにクレアを誘導する。そっちには素直に従ってくれたので助かった。持ってきていた水をグラスに注ぎ、持って行くとクレアはごくごくと飲み干していく。
「ふう……助かったわ。ありがとう、ルナ」
「いえ、それは良いんですが……」
クレアを見ると、疲れているようには見えても辛そうにはない。ただの疲労なら治療院に行く必要もないのだけど、その原因だけははっきりさせておきたかった。
「お嬢様は何をしていらしたんですか?」
「私? 私は訓練してたのよ。もうすぐ学園が始まるからね。少しでも自分を磨いておこうと思って」
「それで倒れるまで? その……無理だけはやめてください。倒れているお嬢様を見たとき、心臓が止まるかと思いましたから」
「はは。人はそう簡単に死んだりしないから大丈夫よ」
笑って誤魔化すクレア。だけどその言葉を私は肯定できなかった。少なくとも、人間がいかに脆いかを知っている私には。
「せめて訓練をする際には誰かを傍に置いてください。今回だってあのまま私が来なかったらどうするつもりだったんですか」
「別にどうもしないわよ。よくあることだし」
「よ、よくあるならなおさら気をつけてください!」
このお嬢様、思ったより無茶をするなあ。メイドの立場でなくても心配になってくる。
「まったくメイドの癖に生意気ね。私がその気になれば貴方なんてすぐにでもクビできるって分かってるの?」
「うっ……」
た、確かに。
別にこちらに落ち度があるわけではないけど、クレアがその気になれば「気に食わないから」という理由で私を解雇することが出来る。労働基準監督署の設置を強く求めたい。
「そ、それでも放置は出来ないです」
「そうなの? なんで?」
「なんでって……そんなの心配だからに決まっているじゃないですか」
「ふーん。あっそ」
あっそって。人の心配はあっそって。
「そこまで心配ならルナが監視しなさいよ。クロエには私から言っておくから。これで満足?」
「え……? いいんですか?」
私からすればクレアと接近できて、願ったり叶ったりなのだが先ほどまでの態度からこうなるとは読めなかった私は思わずたじろいでしまった。
「なに? 私と一緒にいるのはいやなの?」
「いえ! そんなことないです! むしろ望むところです!」
「そ。ならよかった。貴方のことはお爺様の紹介だから信用しているの。私を失望させないようにしてね」
何をすれば失望に値するのだろうか。そこの基準を教えてもらわなければ気をつけようがないのだが……いや、これも一つの試練か。お嬢様はきっと私がどれだけ優秀なのかを試しているのだろう。
「分かりました。ではこれからはお嬢様が訓練する際には私をお呼びください。すぐにでも飛んでまいりますので」
「何言ってるのよ」
……ん?
「貴方は私の付き人になるのでしょう? だったら朝から晩まで私の身の回りの世話をしなさい。丁度、今はその役職の人間がいなかったのよ。私も気に入った人間以外を四六時中傍にいさせたくなんてないし、その点ルナなら安心だわ」
……え?
「ふふ……私と一緒にいるのは望むところなのでしょう? その言葉が本当かどうか、たっぷりと確かめてあげるわ」
そう言って微笑みを浮かべるクレア。
その笑顔を見て私は確信した。
間違いない、この人……
──ドSだ!




