第13話 ルナ・レストン、性の目覚め
孤児院の勉強はそれほど難しくない。
特に算術や文字となると特に退屈だ。
「それじゃあルナちゃん。3×7はいくつですか?」
「21」
「うおおおおおおっ!? 早すぎるだろ白い子!? ちゃんとお前考えたのか!?」
「うるさいですよ、イーサン君」
九九のレベルなんて考えるまでもない。記憶の範囲内だ。
この2年間で文字も完璧にマスターしたし、最早私はニコラと並んでこの孤児院の頭脳トップ2だ。いや、私孤児院の人間じゃないけど。というか人間ですらないけど。
それでも私が孤児院通いをやめないのには理由がある。
授業終わりにマリン先生のところへ飛んでいった私は、期待に満ちた目で先生を見つめる。
「はいはい。そんな餌を待つ子犬みたいな顔しなくてもちゃんと準備してありますよ。はい……魔術教本の下巻です」
「わあ……」
きらきら、きらきら。
擬音にすればそんな感じ。
今、私の瞳はかつてないほど輝いている!
「ありがとうございます、先生!」
「うん。読み終わったらきちんと返すように。あと、絶対になくさないでね? ルナちゃんのことだから大丈夫だとは思うけど」
「はい! ここで読んでますから、帰るときにはまた返します!」
「それなら安心ね。あ、それとこれから先生少し出かけるから、何かあったらみんなのことよろしく頼むわね」
「分かりました!」
もし私に尻尾があれば、扇風機のように回転しまくっていることだろう。
尊敬するマリン先生から頼みごとをされたのだ。この身命を賭してでも守り抜く!
というか、先生。そういうことは年長組のイーサンやニコラに言うべきなのでは? まあ、頼りにならないのは分かるけど。
「それじゃあ行ってくるわね。2時間くらいで帰ってくると思うから」
「行ってらっしゃい、マリン先生」
手を振ってマリン先生を見送る。そして……
いやっほう! ついにこの本が見れるなんて!
上巻は魔術と魔法の体系とか、理論的なことしか書かれてなかったからがっかりしたものよ。聞けば、実践的な内容は下巻に集約されているとか。マリン先生にねだりまくってようやく見せてもらえるようになったこの一冊。
「大切に読まないとね」
授業が終わってまで勉強している私は周りから見ればさぞ奇異に写ることだろう。実際、他の子は皆運動場で遊んでいるみたいだし。あ、ニコラがきた。
「ルナ? 何読んでるの?」
正直、今はニコラに構っている暇なんてないのでスルー。
ふんふん。詠唱や魔法陣を用いるのが魔術で、魔法は基本無詠唱無挙動なのが特徴。違いは魔力の運用に関する熟練度によると。なるほどねー。
「あの……ルナ? 話聞いてる?」
そのせいで魔術は魔法の下位互換のように見られる。
まあ、確かに無詠唱のほうが高度っぽいよね。起こせる現象に違いはないみたいだけど。
「もしかして僕、無視されてる?」
あ、ようやく気付いたのかニコラ君。でも無視はやめない。
私は今、忙しい。
えーと、魔法は大きく6つの系統魔法に分類される。
すなわち、火、水、風、土、光、闇の6属性。うん。ここら辺は予想通り、というか上巻のおさらい的な部分っぽいね。
「る、ルナは凄いなあ。周りの音が聞こえないほど集中しているなんて。邪魔しちゃ悪いし、僕も外に行こうっかな」
ちらっ、と最後にこちらを見るニコラが泣きそうな顔をしているけど無視。
ほら、こんな無愛想な女に構ってないであっちへ行きなさい。
あとそんな悲しい自分へのフォローなんてしないでよ。私が悪いことしてるみたいな気分になるじゃない(←悪いことをしています)。
とぼとぼと学習部屋を出て行くニコラ。これでようやく静かになった。
私はそれから2時間ほど、集中して魔法の勉強を続けた。
……
…………
………………あれ?
もうこんな時間? 外が真っ暗だ。2時間はとっくに経ってる、というか暗くなる前に帰れってティナに言われてたのに。
「んー……」
硬くなった肩を懲りほぐす。
なかなか読み応えがあった。これでまだ全体の10%も理解できていないんだから魔法は奥が深い。また明日も借りよう。あ、でも明日は店の手伝いしなきゃ駄目なんだっけ。
ああ……いっそ、私も孤児院に入ろうかな?
なんて、そんなこと言ったら駄目だよね。
お父様にもお母様にも悪いし、孤児院の子達にも申し訳がない。
彼らは好きでここにいるわけじゃないんだから。
親に捨てられたり、不幸な事故に見舞われたり理由は色々だけど、それでも次の里親が見つかるまで彼らはこの狭い世界で暮らすしかないのだ。
両親がいるだけ私は幸せ。そのことを大切に思わなくちゃ駄目だ。
この世界ではそれさえも当たり前ではないんだから。
「マリン先生ー?」
むう。先生、どこにもいないな。
2時間で帰るって言ったのに。遅いなあ。これじゃあ私も帰るに帰れない。
……はっ!? これ、完璧な言い訳じゃね!?
よし、ティナとお父様にはこう言って誤魔化そう。
私、悪くない。
あ、でもそれだとマリン先生に迷惑が……
「ただいまー。ごめんね、ルナちゃん。待ったでしょう?」
「あ、先生。お帰りなさい」
自己保身と尊敬する人の名誉を天秤にかけていると、ようやくマリン先生が帰還した。とりあえず本を渡して帰ろう。と、思ったのだが。
「あれ?」
先生の影に隠れるように一人の見慣れぬ女の子が引っ付いているのを見つけた。誰だろう、この子。
「ああ、この子はね。新しくうちで預かることになった子なの。ルナちゃんと同い年みたいだから仲良くしてあげてね」
ああ、ニューフェイスね。
仕方ない。ここは孤児院の先輩として、寛大な心でもてなそうではないか。
何度も言うが、別に私は孤児院の人間ではないけども。
それでも気分は孤児院のリーダーだ。
新入りには優しくしてあげないとね。
「私はルナ・レストン。よろしくね?」
「あ……アンナ……」
アンナ? それがこの子の名前なのかな?
どうやら人見知りをするらしく、私の方をなかなか見ない。
うーん。結構、可愛い子なんだけど……ん? よく見るとこの子、見覚えある?
「アンナ……ミューラー、です」
ボサボサとした栗色の頭髪に、ブラウンの瞳。おっとりした目元に、優しげな顔つき。
……って、ミューラー?
確かミューラーって粉屋の苗字だよね。うちも契約しているところに確かミューラーさん家が……あ!?
「あ、あの。アンナちゃんのお父さんって……もしかしてニックって名前じゃないかな?」
「え? ……お父さんのこと、知ってるの?」
やっぱり! この子、ニックさんの娘さんだ!
そっか……お父さんが亡くなって引き取り手がいなかったんだ……うう。可哀想に。
「ニックさんには色々お世話になってたからね。何か困ったことがあったら何でも言って。出来る限りのことはするから」
私はアンナちゃんの手を取り、安心させるようにぎゅっと握り締める。
実際、ニックさんにはかなりお世話になった。
チップとか、チップとか、チップとか……あれ? チップのことしか記憶にないな。ま、まあいい。お世話になったのは事実だ!
「うん……ありがと」
父親を失った寂しさもあるのだろう。
瞳に涙を溜め、上目遣いに私を見つめてくるアンナちゃんは……とてつもなく可愛らしかった。思わずドキッ! と心臓が跳ねる音が聞こえるくらいに。
「…………っ!?」
というかなんだこれ?
胸が痛い。動悸が激しくなる。
頬が……熱い?
「はあ……はあ……」
「ルナちゃん? どうかした?」
私の様子がおかしいことにマリン先生も気付いたのか、心配げな顔でこちらを見てくる。
けど……私は今、それどころじゃない。
目の前のアンナちゃんが可愛くて可愛くて……今にも暴走してしまいそうだ。
本当になに? この気持ち……どんどん体が熱くなってるような……。
《条件を達成しました。スキル『色欲』を開放します》
途中、懐かしのシステムスキルの発動が聞こえたが気にしてられない。
「あ、アンナちゃん……」
駄目……もう、この気持ち、抑えられない!
「ねえ……チューしていい?」
「…………はい?」
ぽかんとした顔も可愛い……あ、駄目。もう無理。
胸の奥から湧き上がる衝動に従って、私は自ら唇をアンナちゃんのそれに押し付けた。
「る、ルナちゃん!?」
唇から感じる温もりがゆっくりと全身に広がっていく。
ああ……何という心地よさ……これが、愛か。
まるで悟りを開いた修行僧のような心持ちでゆっくりと口を離す。
………………はっ!?
え、ええ!? 私、今何したの!?
キス!? ファーストキスだったのに!?
いやいや、そうじゃない。そうじゃないでしょ! 初対面の人にいきなりキスって……えええええ!? どうした私!? ついに狂ったか!? いやついにって何だよ!
「ごごご、ごめんなさいっ!」
慌てて謝るが時すでにおすし。
最早事態は取り返しのつかないことになってた。
「……はぅ」
まるで熟れた林檎のように真っ赤になってしまったアンナちゃんがとろんとした瞳で私を見る。
《条件を達成しました。スキル『魅了』を解放します》
矢継ぎ早に聞こえてくるシステムメッセージ。
い、一体どうすればいいんだこの状況!
最早何がなんだか分からないっ!