第117話 ウィスパーの往く道
「……つまり、お前は吸血鬼の衝動に呑まれて奴隷商人を殺したってことか?」
「うん……本当はそんな風にはしたくなかったんだけど、どうしても耐えられなくて」
ウィスパーと和解というか、会話をした後、帰り道の途中で私はウィスパーに吸血衝動について相談していた。
すでに彼は私の中で信用に足る人物として位置づけられている。
リンやアリスには相談しにくいし、師匠だと適当な回答しか得られそうになかったのでウィスパーに相談することにした。なんだかんだでベストチョイスだったと思う。
ウィスパーならちゃんと真剣に聞いてくれるしね。
「……我を忘れるほどに血が欲しくなる、か。吸血鬼の体質にそんな症状があるなんて聞いたことがないな」
「え? そうなの?」
吸血鬼の吸血衝動といえば割とポピュラーな……いや、それは前の世界での常識か。こっちの実物には関係ない。日の光だってある程度耐えられるし、水だってにんにくだって私は平気だ。
伝承にあるような吸血鬼のテンプレ像は私には通用しない。
そのことは分かっていたつもりだが、どうやら私は早とちりしていたらしい。
「でも……そうなると"アレ"は何だったの?」
「……一つ確認なんだが、お前の言う吸血もーどだったか? その状態と今回の件は全くの別物なんだな?」
「うん。それははっきりと分かる。いつもなら血を吸ってもちょっと気分が昂ぶるくらいで、意識を奪われることなんてなかったんだけど……今回は記憶にすら残っていないんだ」
今回の吸血衝動は明らかにイレギュラー。
今までの私の経験にはない状態だった。
言うならノーマルモード、吸血モードに対して、それとは別の狂血モードとも言うべき状態だった。そのことははっきりと自覚している。
「……だとするならば何かしらのトリガーがあるはずだ。何か普段と違うことをしたとか、心当たりはないのか?」
「んー……強いて言うなら長いこと血を吸っていなかったってことかな。でも小さい頃はずっと血なんて吸ったことなかったのに発作は起きなかったよ」
もしも、吸血の頻度が原因なら小さい頃から私は何度も血に飢えていないとおかしいからね。私の記憶にはそんな経験ないし、周りから注意されたこともない。過去に私が狂血モードになったことはないと思って良いだろう。
「……だとしたら一度血を吸ったことで、お前の中の吸血鬼の血が目覚めてしまったのかもしれないな。万全を期すなら今後は定期的に血を飲んだ方がいいのかもしれない」
「定期的に、血を……」
本音を言うなら何でもないときに血を吸うことはしたくない。
確かに気分は良くなるが、それだけに常習するようになっては困るからだ。
吸血鬼にとって血は麻薬にも似た物質だと私は認識している。本当に血を吸わなければどうしようもない場合を除いては血を吸いたくはないのだ。
「まあ、ひとまずは様子を見てになるか。だが、もしも血を吸わないことで吸血衝動に駆られるのなら手段はないぞ」
「うん……そうだね」
ウィスパーに相談することで方針が決まってきた。
もう二度とあの状態になることだけは避けなければいけない。そのためにも、そのトリガーはきっちりと調べておかなければ。
でも……
「もしも吸血衝動に駆られてリンやアリスの血を吸うことになったら……私はきっと私を許せなくなる。それだけはしたくないよ」
「……ルナ」
調査するにしても安全性はしっかりと確保しなければいけない。
もしも、死に至るほどに血を吸ってしまえば最早取り返しがつかない。
それだけは気をつける必要がある。
不安と決意を胸に秘めた私に、ウィスパーは、
「……その時は俺が止める」
「え?」
「ルナが血に狂った時は俺が止める。そう言ったんだ」
はっきりと私にその宣言をしてきた。
「え、いや……止めるってウィスパーが私を?」
「ああ」
「あー……嬉しいんだけど、やめておいた方が良いかもよ? いくらウィスパーが相手でも何するか分からないし」
狂血モードの私がどれほどの戦闘力なのかは分からないが、少なくとも吸血モードと同等近くの性能なのは間違いないだろう。血を吸う前ならまだ分からないが、その後となればウィスパーで止められるはずもない。
そのことはウィスパーも重々承知しているだろうに。
「心配はいらない。俺がそうしたいからそうするだけだ。どんな結果になっても後悔はしない」
ウィスパーは躊躇うことなくその未来を口にする。
奴隷商人を殺すときはあっさり逃げ出したくせに、こういうときだけ強情になるのだから面白い男だ。単にお人よしとも言う。
「……それなら私はちゃんと自制しておかないとね」
でもそんなウィスパーだからこそ、私は相談する気になったんだと思う。
彼の誓いに応えるためにも、私は私の血を制御しなければいけない。
それが私の当面の目標だ。
「……ねえ、ちょっと話は変わるんだけど一つだけ聞いてもいいかな」
「何だ?」
「私は……変わったかな」
「……すまん。質問が漠然としすぎていて要領を掴めない」
「あはは、そうだよね」
ここまで聞いてみるつもりはなかったのだが、今更だろう。
私は思いきってもう一つの懸念点をウィスパーに相談することにした。
「私は普通の平民の家に生まれて、近くの子供たちとなんら変わらない生活を過ごしてきたの。凄く遠い昔のことみたいに思えるけど、そんな時期が私にもあった。だけど……」
それはアリスと再会することで表面化した一つの"恐れ"だ。
「私は女の子を救うと決めたとき、奴隷商人を殺すことでその問題を解決しようとした。でもそれはあの頃の私なら選択肢にすら上がらない考えだったはずなんだ」
人は変わる。
それは当たり前のことだが、私はどうしても怖かった。
「だから今回の件を改めて客観的に見たとき、もしかしたら……私は吸血鬼としての私に少しずつ塗りつぶされているんじゃないかって、そう思ったの」
自分が自分でなくなる感覚。
あの路地裏で感じた孤独感は今も私の心の奥底に根付いている。
アリスが上書きしてくれたとはいえ、"それ"はなくなったわけではない。
「……それでさっきの質問か」
「うん。どうかな、普段の私も吸血鬼の血に引っ張られてると思う?」
「そこまでは分からん。俺は昔のお前を知らないんだからな」
「あ……」
そういえば……そうだった。
あまりにもずっと一緒にいたものだから忘れかけていたけど、ウィスパーとは出会ってまだ数ヶ月しか経っていない。私の変化を確かめるには適さない関係だった。
「昔のお前のことは分からん……が、少なくとも言いたいことは分かる。俺も記憶を失ってからそのことには随分考えさせられたからな」
「そっか……そうだよね」
「先達として言わせてもらえるなら……あまり深くは考えないことだ」
「…………」
結局、ウィスパーの答えは保留の考え方だった。
それしかないのは分かっているけど、私は明確な答えが欲しかった。
でも……ずっとウィスパーはこの辛さを抱えてきたんだよね。まだ一日しか経っていない私が根を上げるには早すぎる。
「……心配なのか?」
「そりゃあ、ね。正直に言わせてもらうなら今回の決断だって絶対の自信があって選んだわけじゃないし。後悔するつもりはないけど、これが正しい道かなんて進んでみるまで分からないよ」
「真理だな」
「うん……だからこそ、少し怖い。もしも私が道を間違えてしまったとき、付いてきてくれた皆を不幸にしてしまうから」
紛れもない本音を吐露する私に、ウィスパーは空に浮かぶ月を見上げながら言う。
「……不幸にしてしまう、か。それこそ心配いらないと思うがな」
「……え?」
「お前はお前の意思で道を選んだ。そして俺も、リンも自分の意思でお前についていくことを選んだ。だったらお前は前だけを見て進めばいい。後ろを振り返る必要なんてない」
真面目な話をしていたからか、いつになく真剣な声音でウィスパーは言葉を紡ぐ。
「俺はお前に憧れた。その生き方を尊敬した。臆病な俺はその道から一度逃げ出したが……結局はそのことを強く後悔した。俺はもう、義に背くような生き方はしたくない」
ゆっくりと歩くウィスパーはちらりと私に視線を向け、言う。
「さっきの言葉は聞かなかったことにする。だからお前は歩き続けてくれ。どこまでも真っ直ぐに、自分の意思を貫いて、俺たちの進むべき道を照らす光であってくれ」
それはどこまでも純粋な無茶振り。
行く先を先導に全て託した思考停止に等しい責任放棄だ。
だけど……自信を失いかけていた私には、何よりの気付け薬になった。
この道で良いのだと、そう認めてもらえた気がして。
「はは……やっぱり、ウィスパーは頼りにならないね」
「今更だな」
「それを自分で認めちゃうんだ」
「今回の件でいい加減身に染みた。俺は矮小な人間だとな。だが、小さいなら小さいなりに信じる道を決めたいのさ」
「その指標が私ってわけ? 別にいいけど……どうなっても知らないよ?」
「それもまた俺が選んだ道だ」
最高に格好よさげに、最低に格好悪い台詞を言い切ってみせるウィスパー。
どうやら私と話していて、色々吹っ切れたらしい。以前にはない清々しさを感じる。
「私の進む道が正しい保障なんてどこにもないのに……馬鹿みたい」
「否定はしないが、俺は信じているぞ」
「何を?」
「お前の進む道が正しいということを、だ」
「……そういうのを盲信って言うんじゃない?」
「かもな。だがそれでも証拠はある」
「証拠?」
「ああ……見ろ」
歩きながら前方を指差すウィスパー。
一体、何が彼をそこまで言わせるのか気になってその先を追う私。
するとそこに待っていたのは……




