第113話 月下の再会
「……うっ」
ゆっくりと瞼が持ち上がる。
今まで気絶していたのだと気付くには、しばしの時間が必要だった。
周囲に視線を向け、見慣れぬ路地に思わず首を傾げてしまう。
「ここ……どこだ? 私は一体、なんで……」
過去の記憶を遡り、そして……気付く。
私は吸血衝動に呑まれてしまったのだと。
ぼんやりとした記憶は曖昧で、何があったのか詳しいことは何も思い出せない。だが……
「なんだよ……これ」
私の服にべったりと付着した血が全てを物語っていた。
すでに真っ黒に変色した血液はそれなりの時間が経っていることを私に教えてくれる。
さっと頭部に手を伸ばすが、そこに吸血鬼の角は存在しなかった。
「そんな……私は……こんな、こんなつもりじゃ……」
自らの欲に溺れ、ただ本能のまま事を終えてしまった己を悔やむ。
だが、そのこと以上に……
「違う……違うよ。私はあんなこと……望んでない……」
微かに残る記憶の一部。
他者を隷属させ、意のままに動かすのは快感だった。
命を奪う圧倒的優越感は、何にも変えがたい陶酔を私に与えた。
渇いた喉を通る血の味はどんな美酒をも凌駕していた。
そして……私はそれら全ての感情を受け入れ、笑っていたのだ。
奪う行為の全ては己の欲を満たすために。
私は……この時、初めて自分の中に流れる血を"怖い"と思った。
「なんで……こんなことに……っ」
誰にともなく問いかけるが、その答えが返ってくるはずもない。
私は私の中の自分に負けた。それが全ての原因だ。
まるで私ではない別の誰かに意識ごと乗っ取られるような感覚。吸血モードの私も別人格みたいなものだが、今回はその比ではない。
何しろ、記憶すら残らないほどに私は自分を見失っていたのだから。
このままだと私は……いつか血の欲求に負け、完全に自分を失ってしまうのかもしれない。
そのことが今は堪らなく怖かった。
「は、はは……これはウィスパーがリンを買うわけだよ。こんなの……耐えられるほうがどうかしてる」
自分で自分の体を抱きしめるが、この身を震わせる恐怖は全く消え去ることはない。
それどころかどんどん自分の中でその感情が膨らんでいくのが分かる。
(あれは定期的に血を飲んでいれば回避できるのか? それとも戦闘の高揚が原因? 分からない……分からないけど、リン達がいる前であんな風になるわけにはいかない)
もしそうなった時、私が彼女達に何をするのか自分でも分からなかった。
もしかしたら……私は一人でいるべきなのかもしれない。
大切な人を傷つけるくらいならそっちのほうがずっとマシだ。
「…………独り、か」
急に胸に湧き上がる孤独感。
父親を失ったアンナはこんな気持ちだったのだろうか。
自分の居場所を見つけられなかったアリスはこんな気持ちだったのだろうか。
元々、私は精神的に強いほうではない。
リン達といた頃には幾らでも強くいられた。だけど、誰の目もない場所で独りになれば私はこんなものだ。
「こんなことになるなら……普通の人間に生まれたかったよ」
この体のおかげで今まで生き延びてこれたのだと分かってはいても……私は言わずにいられなかった。
色欲の罪、吸血鬼の血。
そんなものは欲しくなかったと。
ただ、私は家族や友人と何でもない日常を過ごせればそれだけでよかったのに。
「……っ、うぅ……」
今まで考えないようにしてきたこと。
だけど、一度頭を過ぎってしまえばどうしようもなかった。
「なんで……私ばっかり……こんな目にあわないといけないんだよぉ……」
感情に呑まれた私は頬を伝う涙を止めることが出来なかった。
山賊に襲われ、奴隷商人に飼われ、非道な主人にこき使われ、地下迷宮に落ちた。何度も死にそうな思いをしながらようやく帰ってきたと思ったのに……私はまだ、あの暗い地の底にいたのだ。
涙で霞む視界で自らの両手を見る。
血でべったりと塗れた私の手は、すでに後戻りが出来ないほどに汚れきっている。
どんなに望んでも、どんなに希っても……もう、私は戻れない。
──あの頃の幸せな日々には、もう帰れないのだ。
そのことがどんな痛みよりも辛かった。
ただただ、胸が張り裂けそうなほど悲しかった。
「また会おうって……約束、したのに……私は一体、どんな顔で皆に会いに行けばいいんだよ……ッ」
私は変わってしまった。
そのことに気付いてしまった。
以前の私ならそもそも"奴隷商人を殺す"なんて発想が出てこなかったはずなのだ。だが、戦いの高揚を知ってしまった私は、血の味を知ってしまった私は自ら望んで誰かを殺すことを選んだ。
その時点でもう、私は以前の私ではない。
アンナの頼れるお姉さまでも、アリスの生意気な妹でもない。
ただの……一匹の吸血鬼だ。
「うっ……ううっ……」
その場にへたり込み、とめどなく涙を流す私の頭上に……その声は降ってきた。
「──何よ、少し見ない間に随分泣き虫になったみたいじゃない……ルナ」
聞き覚えのある声。
だがそれは同時にこんな場所にいるはずがない少女の声だった。
「…………え?」
呆然と見上げる私の視線の先に……彼女は呆れ顔で立っていた。
「まったく、どんな顔で会えばいいのかですって? そんな馬鹿なこと考える暇があったら、一分一秒でも早く顔を見せに来ることを考えなさい。こっちが一体どれだけ心配したと思ってるのよ」
月明かりを浴びて黄金に輝く彼女の髪。
私を真っ直ぐに見つめる瑠璃色の瞳はあの頃とちっとも変わっていなかった。
「まあ、ルナがぐずぐずしてたおかげでこうして見つけられたんだけどね。まったく、昔からルナは私がいないと本当に駄目なんだから」
「……な、なんでこんなところに……」
「なんで? そんなの決まってるじゃない」
思わず口から漏れた私の問いかけに、彼女は少しだけ恥ずかしそうな顔をして、
「迷子になった家族を見つけるのに理由なんていらないわ。さあ……帰るわよ、ルナ。次に迷子になったりしたら許さないんだからね」
そう言った少女……アリス・フィッシャーはあの頃と全く代わらない姿で私に手を差し伸べるのだった。




