第112話 忍び寄る影
死んだほうが良い人間というのはこの世に確実に存在している。
他者を虐げ、己の欲の為にのみ利用する者。
私はそんな人間をこの世界で何度も何度も見てきた。
多分、それが人間という種の本質なのだろう。私がいた世界でも家畜と呼ばれる存在があったし、それが別の人間に置き換わっただけだと思えば理解も出来る。
だが、理解は出来ても納得なんて出来るはずも無い。
たとえ、それが世界の真実なのだとしても。
罪には罰が必要だ。
もしそれが看過される世界ならば……人の世に情けなど存在しなくなる。
ただ欲に塗れた卑しき社会があるだけだ。
私はそれが許せない。
だってこれまで私が出会ってきた中には、優しい陽だまりのような温かさを持った人達がたくさんいたのだから。
誰しも罪を抱えて生きている。
それは彼女達も例外ではない。
だけど……もし、許されるのなら。
私は彼女達のような存在の為に、戦いたいと強く思うから。
(だから……お前みたいな奴はこの世界に要らないんだよ)
握るナイフを固く握り締める。
奴隷商人の上に馬乗りになった私は、その喉元に鋭い切っ先を突きつけていた。
後数センチ押し込むだけでこの男は絶命する。
そして、それは同時にあの少女の解放も意味していた。
やるべきだ。やらなければならない。
私がそうすることで、この世界はより良いものになるのだから。
「死ね」
自然と漏れた言葉に、腕に力を込める。その瞬間……誰かの声が聞こえたような気がした。
「…………え?」
それは懐かしい少女達の声。
すでに遠い過去に追いやられた、記憶の残滓だった。
もう思い出すことすら難しい……温かい日々の記憶。
両親と共に定食屋を開き、お客を迎えた日々。
孤児院で友達と一緒に学び、遊びつくした日々。
師匠の下で研鑽を積み、家族のように過ごした日々。
そのどれもに私は確かにいた。
最早、霞がかかったかのようにおぼろげなその記憶達。
自分がどんな顔で彼女達と接していたかさえ、もう思い出せなかった。
だが……失いかけた私の代わりに、その中にいた"彼女達"の魂が叫ぶのだ。
──やめて! と。
「ぐっ……!?」
その声が聞こえた次の瞬間、凄まじい痛みが私の脳内を走った。
そして"彼女達"の声を塗りつぶそうとするかのように、次々と聞き慣れぬ少女の声が私の脳内で反響を始める。
──コロセ。
駄目だ……私は皆のところに帰るんだ。
──コロセ。
それは私が私のまま、しなければならないことなんだ。
──コロセ。
だから……黙れよ!
──コロセ!
「私の中に……入ってくるなァァァァッ!」
強烈な頭痛に、私は無茶苦茶にナイフを振り回しながら痛みに耐えた。
確か……前にもこんなことがあったような気がする。いつだったか、確かまだ私が地下迷宮にいた頃、土蜘蛛の討伐を終えた時。私は今みたいな頭痛に襲われたことがあった。
それから……それから?
何があったか思い出せない。
それほど昔のことではないというのに。
「誰だ……お前は一体、誰なんだっ!?」
まるで頭の中にもう一人の自分がいるかのような感覚。
そいつは今の私を見て、楽しげに嘲笑っていた。
おかしい……明らかに今、私は通常の状態ではない。
こんな風に感じることは今まで何度かあった。吸血モードに入るたび、もう一人の自分が顔を覗かせる。そんな感覚だ。
だが今はノーマルモード。
血なんて一滴たりとも飲んではいない。
だというのに……今の私の魂は何者かに侵略を受けていた。
手綱を奪われるような強引なものではないが、囁かれ、導かれるように少しずつ、少しずつそちらに誘導されていく。
「ぐっ、うう……ぅぅ……」
渇く。
まるで焼き焦がされているかのようなちりちりとした痛みすら感じるほどに。
血が欲しくて欲しくて仕方がない。この喉の渇きを満たすには、それしかないと本能が理解していた。
だが……それと同時に、この衝動に身を任せば私は私でなくなってしまう。
そのこともまた同じく理解してしまった。
今まで感じたことのない飢餓感。私はそれに心当たりがあった。
(吸血鬼の……吸血衝動か!?)
なぜこのタイミングで発動したのかは分からない。
だが、本能が血を求めるのは止めようがない。
腹が空けば食欲が溢れ出る。
夜になれば睡眠欲が体を満たす。
それと同じように、私は今、自らの欲を抑える術がなかった。
どうせ殺すつもりだったのだから吸い殺してしまえばいい。そんなことを考えなかったわけではない。だが……
(馬鹿がっ! 今、その欲に流されたらコイツらと同じになっちまうだろうが!)
私は私の信条に従い、それだけはどうしても許容することが出来なかった。
本能のまま欲望を貪る吸血鬼としてではなく、理性を持って秩序を為す人間として。そうでなければ私の行いに義はない。ただの人殺しになってしまう。
「はあ……はあ……わ、私は……人間、だ……」
荒い呼吸のまま、自分に言い聞かせるように呟く。
少しずつ気持ちが治まっていくのが分かった。だが、完全に気を取り直すだけの時間は私にはないらしい。これだけ大きな隙をハーミットが逃すはずがないのだから。
ひゅんっ! と、鋭い風斬り音と共にこちらに向けて迫る白刃が、ぐちゃぐちゃに掻き回された思考の中でやけに鮮明に見えた気がした。そして……ほとんど反射的に私は迎撃に移っていた。
「なっ……!?」
ハーミットの驚いた声が聞こえる。
集中スキルの恩恵か、まるでスロー再生される映画のようにゆっくりと流れる世界で私はハーミットのナイフを自らの右手指で挟み込むように受け止めていた。
「……逃げて」
「え……?」
「このままだと……私は……」
殺されるかもしれない緊張感。
もしかしたら私の吸血衝動は種としての防衛本能の現われだったのかもしれない。だからこそ、再び剣戟を交わしてしまった私にはもう……自分を抑えることが出来そうにもなかった。
「──貴方まで、食い殺してしまいそう」
「…………ッ!」
まるで愛を囁く恋人同士のように、ハーミットの体を引き寄せ耳元で囁く。
彼は今回の件には偶然居合わせただけの護衛に過ぎない。ここで殺してしまうのは申し訳ないからね。ここらでご退場を願うとしよう。
軽く身を離し、ハーミットの瞳を見つめる。
とろんと蕩けた瞳に私は彼が『魅了』にかかったのだと分かった。
今までとは違い、強く意思を込めることで強制的に発動したらしい。
こんな使い方、今までしたことがないはずなのに私にはそうなる確信があった。
記憶としてではなく、知識としての認識。
いつしか頭痛はどこかへ消え去っていた。
「貴方は逃げなさい。ここで愚物に付き合って死ぬ必要はないわ」
「……あ、ああ」
曖昧な返事を残し、頼りない足取りでこの場を去っていくハーミット。
そうして残されたのは私と……
「うっ……うああああぁぁぁっ!?」
情けない悲鳴を上げ、頭を抱えるこの男だけ。
「なんで!? どうしてだ!? どうして私を殺そうとする!? 私は何もしていないのに!」
「どうして? ふふ……おかしなことを聞くのね」
思わず失笑が漏れる。
この行いに理由を求める男が滑稽でならなかった。
「弱者は蹂躙されるのみ。それが自然の摂理、でしょ?」
貴方が今まで行ってきたことと同じように。
最後の言葉は言うまでもなく伝わったらしい。縋るように瞳を上げた男は私を見て……全てを諦めた表情を浮かべた。
「それじゃあ……"いただきます"」
男の瞳に写った最後の感情、それは"絶望"だった。
近寄るごとにゆっくりと大きく写りこむ私の影。
そこに写る私は……
──燃えるような紅色の瞳をしていた。




