第106話 離別の時
奴隷の少女を発見してから十数分後。
薄暗い路地裏を一人歩くその姿を発見した私は衝動のまま叫んでいた。
「ウィスパー!」
私の呼び声に振り返るウィスパー。
その表情にははっきりと驚きの感情が込められていた。
「ルナ? お前、どうしてここに……」
言いながらウィスパーは気付いたらしい。
私が来た方向に何があるのか。
そしてどうして私がこんなにも声を荒らげているのかにも。
ばつが悪そうな表情を浮かべるウィスパーに私は詰問するかのような口調で問いかける。
「ウィスパーは最初から気付いていたんだよね。あの子が奴隷だって」
「……まあな」
元々の依頼からして不自然ではあった。
気付こうと思えば気付くことは出来たのだろう。
でもあの時点でその可能性に気付いていたのはウィスパーだけだった。
そう言う意味では私には彼を責める権利なんてないのかもしれない。
でも、それでも私は言わずにはいられなかった。
「なんで……なんであんなことしたんだよ、ウィスパー」
多分ウィスパーは今回の依頼をほとんど一人で片付けてしまうつもりだったのだろう。私が早めに治療院に向かわなければウィスパーはただ誤魔化すだけでよかったのだから。
「……言えばお前はきっと迷ったはずだ。あの子を助けるべきかどうか」
「それで私達に隠すことにしたっていうの?」
「ああ。お前が知るべきことじゃないと思ったからな」
私の問いに肯定して返すウィスパー。
だけどそれはつまり……
「ウィスパーはあの子を見捨てるべきだって言うの?」
「……そうだ」
否定して欲しかった問いに、しかしウィスパーは頷いた。
私はウィスパーのことをそれほど詳しく知っているわけではない。
過去も素性も何も知らない。
だから"裏切られた"なんて感じるのはお門違いの感情なのかもしれない。
それでも……私はウィスパーに否定して欲しかった。
「あの子は助けを求めていた。助けてって、私にそう言ったんだよ、ウィスパー」
「……今回はリンの時とは事情が違う。俺たちにはどうすることも出来ない。それはお前も分かっているだろう」
確かに奴隷紋がある限りあの子が主人の元から離れることは出来ない。
それは良く分かっている。
だが……それでも方法がないわけでもない。
「ルナ? お前、まさか……」
ウィスパーは私が考えていることに気付いたらしい。
「……殺すつもりなのか? あの商人を」
そう。
あの子を救うために残されたたった一つの方法がそれだ。
主人が死ねば奴隷は自由の身となる。
奴隷紋に縛られた彼女が自力でそれを達成することは不可能に近い。
どうしたって外部の助けが必要となる。
だからこそ彼女は悲痛な叫びを私へと届けたのだ。
──助けて、と。
「私はあの子の言葉を無視するつもりはない」
「……本気なのか?」
「うん。私はやるよ、ウィスパー」
私はあの奴隷商人を……殺す。
そうしなければならない。
罪のない少女が理不尽にも虐げられる。
そんなのは間違っている。
「それで罪に問われるのはお前なんだぞ、ルナ。この街どころかこの国にもいられなくなる。司法局の人間には罪人を殺す権利があるんだ。一生日陰で生きる羽目になるぞ」
言い聞かせるようにそう言ったウィスパー。
その顔を見れば彼が本気で私のことを心配してくれているのが分かった。
だけど……私はすでに"選択"したのだ。
今更立ち止まるつもりはない。
「それであの子が助かるならそれでも良い。私は元々日陰者だしね」
あの地獄の日々に比べれば逃亡生活なんて天国みたいなもんだ。
別にそこは問題にしていない。
問題なのは……ウィスパー達までそれに巻き込んでしまうかもしれないということ。
「なんでそこまで……あの子とお前には何の関係もないはずだろ? それなのになんで……」
ウィスパーは私の決意に訝しげな表情を浮かべた。
まあ、確かにそうだろうね。
私と彼女の間にあるのは境遇が似ているというだけの接点しかない。
たったそれだけの理由でこんな馬鹿げたことをしようとしているんだから疑問にも思うだろう。
だけどね、ウィスパー。
それは別に私にとっては特段不思議なことでもないんだよ。
「私はね、どうしても許せないんだよ。弱い人間ばかりが損をする仕組みなんて間違ってる。それが是とされる法律なら守る必要なんてない。少なくとも私はそう思ってる」
人が法を守るのではない。
法が人を守るべきなのだ。
そうでなければ意味がない。
「……だけどそれをウィスパー達にも強要するつもりはないよ。流石に私もそんなことは言えない。だから……」
人気のない路地で私はウィスパーと正面から向き合う。
いつか来ると思っていたその時が今、訪れたのだ。
「私達の"旅"はここで終わらせるべきなのかもしれない」
それは惜別の時。
お互いに向かう方向が違うのなら、それは仕方のないこと。
誰にも他人を縛る権利なんてないのだから。
そこを曲げてしまえば私の信条に矛盾が生じてしまう。
人は人である限りどこまでも自由であるべきなのだ。
人は誰しも幸せになる権利を持っている。
それを犯すことは他の誰にも出来ない。
だから……私にはウィスパーを止める権利なんてない。
「俺は……」
私の投げかけに対し、ゆっくりと口を開いたウィスパーはやがて……
「すまない。俺には……無理だ」
その"答え"を口にするのだった。
お久しぶりの更新になりました、秋野錦です。
前回のお話からかなり時間が空いてしまって本当に申し訳ないです。
私事のほうに時間を取られてしまってなかなか執筆時間を取ることが出来ませんでした。
5月いっぱいは不定期更新が続くかと思いますが、ご容赦頂けると幸いです。




