別離
「本当に来るだろうか…」
「大丈夫。きっと来ますよ」
割烹着姿の少女は、そう言って老女倭文重に微笑んだ。
「ここにはいろんな人が来ます。峠を越えて、次の場所に向かうためにー」
茶屋は峠のトンネルの丁度二三間手前にある。今では高速道開通で、めっきり人は減ったが、其れでも此処を訪れるものは多い。少女はそのことを言っているのだ。
倭文重が誰を待っているのか、此の茶屋を手伝う少女は知る由もない。だが、その言葉は今日倭文重のために用意されたもののように、彼女には思えてならなかった。
ー本当だ。と、あの日彼は教えてくれた。
「ほら、此処からだとあの茶屋がよく見える。あの灯が、バラバラになった僕達の目標になる」
そんな彼は、遠い昔に南方の空へと飛び立って、二度と帰らなかったのである。
茶を呑みながら在りし日のことを出来事を懐かしんでいた時である。倭文重は思わず、あ、と小さな声を上げた。
ー何時から其処に居たというのであろう。
彼は先刻からそうしていたとでも言うように、微笑んでいた。彼はあの日のまま、屈託のない笑みを浮かべている。
「本当だったろう」
そう彼は悪戯っぽそうに言った。倭文重は言葉もなく、只々うなづいた。
「しばらくぶりだ。方々に散った仲間を探すのにえらく手間取ってしまった」 と、彼はその無礼を詫びた。
一体、どれほどの苦痛が、彼を苦しめたことであろうか。仲間を探し出すのに、どんな歳月を、空を漂ったまま費やしたことであろう。…
「さぞ、辛かったでしょう」
彼は微笑むきりだった。しばらくしてーそんなことはないーと、彼は言った。痛苦の色はない。むしろ彼は幸福そうであった。
「あの無数の火の玉に突っ込むとき、まるで零の翼が僕の体と一体化したかのようだった。僕は世界を具に見た。なにか世界が僕らの想像を絶した、途方も無い縁の輪で繋がっているのを、あの刹那にはっきりと見てとった。あれは決して見間違いではない。僕は満足している。…あれは言葉で語ることはできないようだ。…僕はあの時、何かを『知った』から、もう一度この場所に帰ってくることができたんだ。帰ってこれたんだよ。《縁の輪》で!」
倭文重は涙を浮かべた。まるで堰を切ったように。彼は地平に到達したのだ。
「ここに来るのが、怖くて怖くて堪らなかった」
と、倭文重は言った。
「出逢うことがなければ…私はあなたが何処かで生きているかもしれないと信じ続けることが出来たかもしれない」
「僕も怖かった。逢うと言うことはいつか別れる日が来るということだ。逢わなければ、そばで漂っていることができたかもしれない。そうも考えた。ただ、僕は生きている間に、沢山の人々と約束した。果たさなければならない…だが、忘れちゃいけない。僕たちは繋がっているんだ」
彼は立ち上がった。行かなければならない時が来たようである。
短い逢瀬であった。彼等の共有した時間は人生の内、ほんの僅かな時であったに違いない。だが、この為…この一瞬の為に彼女は生きたのだ。
「いってらっしゃい」と、あの日のように倭文重は微笑んだ。
彼は屈託なく「いってまいります」と、言った。あの日のように。
倭文重は店先まで彼を見送る。
彼を待つ青年たちは、トンネルの前でこちらに手を振っている。一様に微笑んでいる。彼らも、何かを見つけたのだ。
彼は駆けた。振り返らなかった。倭文重はその背中に手を振った。…そうして彼女は、青年たちが闇の中に消えてゆくのを見て、晴れ晴れとした安堵のため息を漏らしたのだった。
(了)
怪談ショートストーリーに応募し、落選したもの。心温まる怪談という縛りがあったので、自身の他作品とは一線をことにしたものである。長い間捨て置かれた小品ですが、ここに公開するものです。