「暇人め」
彼、因幡 楓<イナバ カエデ>が藤島 安芸<フジシマ アキ>に初めて出会ったのは、今日と同じ月が綺麗な夜だった。
***
高校受験をあと少しに控えた1月下旬。かじかんだ空に凍てついた空気。例年より降雪量は少ない。しかし昼と夜の寒暖さが激しく、昼間に降ったみぞれが夜になるとコンクリート上でカチカチに凍る。その上で転ぶことがいかに痛いかを熟知していた因幡は抜き足差し足で氷上を歩いていた。
格好をつけた薄っぺらいジャケットを羽織り、マフラーをぐるぐる巻きにしてあてもなくふらふらと。ポケットに入っているのは小銭がいくらか。このままコンビニにでも行こうか家に帰ろうか、そう逡巡した時、因幡は少女を見つけたのだ。
がぽがぽのフレンチコートを着て、赤チェックのマフラーを巻いた彼女。雪にも劣らないほどの白い肌、触れたら溶けてしまいそうなほど華奢な身体。ごつごつとしたブーツを履いて、危なっかしそうに地面を歩く彼女に因幡はここらへんの人間なのかと目を見張った。
(……雪女みたいだ)
幼い頃に聞いた、彼にそれを思い起こさせるには十分だった。さらさらとした黒髪に誘われて、因幡は彼女に声をかけた。「──ねえ」そうが呟いた瞬間の彼女の顔と言ったら、因幡はそれはもう鮮明に覚えている。
げっ、面倒なことは嫌だと言わんばかりに歪められた顔。そのまま彼女は先ほどの危なっかしさなど無かったように駆けて消えてしまった。脱兎のごとく、とはまさにこのことだろうと因幡はぼんやりと思いながらその日は家路に着いた。
北極星が頭上できらめく。どの季節よりも低く見える空。手を伸ばせばその星を掴み取ることさえできそうな。月が綺麗な、夜のことだった。
***
「イナバ気持ち悪い」
「なんか藤島さんと初めて会った時のこと思い出してさあ」
懐かしいね、と因幡が問いかけると彼女はまた顔を歪めた。出会った当初とまったく変わらないその顔に因幡は笑う。
あの日から何度も因幡はもちろん意図的にだが、彼女と顔を見合わせた。
あれから半年の月日が立ち、何かの縁か巡り合わせなのか因幡と彼女は同じ高校に入学し、あろうことかクラスまで一緒になった。
会うたび、話しかけるたびに彼女は顔を歪めさせたが因幡を無視することは無かった。そんなに嫌ならルートを変えればいいのに、と因幡は彼女に言ったが「あなたが変えれば」と突っぱねられた。(彼女に横入りするように邪魔してきたのは因幡自身だったため、言われたときにはぐうの音も出なかったのは笑い話である)
「いっつも引っ付いてきて、暇なの?」
「そう言われると否定できないものがあるんだよね……」
毎週の水曜日と日曜日。
その二日が彼女が決まって散歩をする日だ。因幡はそれを知ってからというもの、彼女を訪ねる。
「暇人め」
因幡は笑った。6月の生温い風が彼らの頬を撫でる。街灯の弱々しい光が二人の影を伸ばす。
藤島さんには適わないなあ、因幡はぼそりと呟きながら彼女の隣でゆっくりと足跡を刻んでいく。
月が綺麗な夜だった。