人食い
「おまん、何をしちゅう」
背後から声を掛けられて振り返ると、腰の曲がった男がひたとこちらを見上げていた。
「この辺に、人を喰う花があると聞いて。何か御存じないですか」
それを聞くなり、老人は苦々しさを顔いっぱいに浮かべた。辟易しているようにも見えたし、嫌悪しているようにも見えた。
「最近そう言ってよう人が来ゆう。あやかしい、花が人を喰うなんてあるわけなかろ」
老人には西の訛りがあるようだった。何となくの意味合いやニュアンスは伝わるので、そのまま話を続ける。
「ご老人はどこに住まわれているのです?」
「すぐそこの小屋に、もう何十年も住みゆう。けんど生きとる。喰われとらん」
「……そうですか」
「おまんも、花を取って売りゆうがか」
「いえ、自分は花商ではありませんので。――ただ、」
「花が人を喰うなら、ぜひ喰われてみたい」
鋭く光っていた老人が、一拍の間をおいて緩やかに開かれた。
「ところでご老人、この近くにお住まいなら屋根をお借りできないだろうか。町から思いのほか遠くて、今からは帰りつけそうにない」
「……えい、ここはしょうにあいき、泊まっちょけ」
「ありがとうございます」
老人は自らを「フジ」と名乗った。
鬱蒼と茂る深い森の中にぽつりと建つフジ老人の家は、当人が言うように家よりも小屋に近い代物だ。おそらく自作であろう家具や、手直しされた屋根壁には記憶が染みついているようだった。
「儂は向こうに寝るき、好きに使うとえい。家を出るときァ、起こせ」
「はい。ありがとうございます」
言いながら、フジ老人は湯気を立てている鍋から何かを椀にとり、自分のところへ運んでくれた。
「食べやァ。ちっくといたいがやき、気をつけとおせ」
少しずつ、言葉の意味が取れなくなっていく。何に気をつけたらいいのかが見当つかない。曖昧に笑いながら椀に口をつけると、葛でとろみのついた山菜の汁もののようだった。無防備に啜ったそれは想像以上に熱く、舌を火傷した。フジ老人が笑う。
「やき、ゆうたろう」
今のは分かった。「だから言っただろう」だ。
「いや、あまりにも美味しそうだったのでつい。以降気をつけます」
「そうしちょき」
自分が椀の汁ものを飲み干すまでの間、フジ老人も共にそれを飲みながら話をしてくれた。長い間ここに住んでいたこと。最近になって人を喰う花があると噂が流れ、珍しい植物を取って売ろうと訪れる人間が増えたこと。この森の深さと寒さに耐えかねて彼の家は何度も襲われたこと。
「そうまでして、どうしてここに住み続けるんです?」
「……娘が、眠っちゅうき。娘をおいて一人で街になど、行かれん」
フジ老人が目を細める。その目に浮かぶものが懐古か悔恨か、区別がつかなくて眉をしかめた。
「明日、日が昇ったら娘さんに手を合わせさせていただいてもよろしいですか」
彼がふわりとほほ笑むのを見て、胸を撫で下ろした。フジ老人をこの場所へ縛るのは、どうやら悔恨ではなく愛着だ。
「きっと娘も喜ぶろう」
森は、朝になってもほの暗く湿っていた。
木々の隙間から洩れる陽光も、霧にさえぎられて弱々しい。
フジ老人に案内を乞って進んだ先にあったのは、ぽっかりと空いた陽の溜まる空間だった。
森の中で唯一だろう、花の咲くその空間の真ん中に小さな石が立っていた。
「昔、儂らはここに来ゆう。この森で野生動物に襲われて死んだ。儂一人では、街まで運んでやれなんだ……」
「一人って、奥さんは」
「家内は娘を産むときに死きしもうた。家内の残した大事な娘やったき、置いていかれん」
「……残念です、生きているときに街でお会いしたかった」
墓前に片膝をついて掌を合わせる。振り返ると、フジ老人が妙な顔をしていた。
「私の地区の風習です。どうかお気になさらず」
「えい。綺麗やき。――今日は、帰るがか」
「少しだけ森を散策します。陽が高くなるころには帰ろうと思います。どうも、お世話になりました」
「この森は陽がかげるのが早いき、気をつけえ。こげんばあ足元、よう躓くき」
「ありがとうございます。では」
頭を下げると、フジ老人はにっこりと笑んで答えた。踵を返してからその場を離れるまで、背中にずっと老人の視線を感じていた。
少女は大きな森に迷い込んだ。
もともとは森の入口近くにある薬草を摘んで帰るだけだったはずが、ふと方向を見失ってしまった。そろそろ陽が高い。暗くなるまでに街に帰りつくには、もうこの森を抜け出さなくてはならないのに。
この森には人を喰う花があるという。もちろんただの噂だとは思うが、一人でこの森を歩き、もしも抜け出せないまま夜になってしまったらと思うと恐ろしくなる。ただでさえ、周囲を歩きまわる見慣れない野生動物にいちいち肝を冷やしているのだ。
「…くも」
背後から声がして、少女は肩を跳ね上げた。一瞬ののちに、人がいるのだと判断する。
「誰か、誰かいるんですか? あの、」
「――危ない」
唐突に肩を掴まれて、また少女は驚く。振り返ると、長身痩躯の男が立っていた。
「そちらには、行かないほうがいいですよ」
「え」
少女を制してすぐ、男は胸から銃を抜いた。振り返りざま、背後に向けて引き金を引く。乾いた音が反響する中で、振り返った茂みの中から死体が現れた。腰が曲がり、ひげを蓄えた老人だった。その手には猟銃が握られている。
「おとうさん」
また背後から声がした。見ると、巨大な植物が口――花に口はないが、そうとしか形容できない――を開けてこちらを見下ろしていた。
「おとうさん」
声は、その口から発せられているようだった。
「おとうさん」「なぜ」「殺した」「殺した」「死んだ」「死体だ」「痛い」「おなかがすいた」「助けて」「助けて」「ここから出して」「肉を喰わせろ」「命を」「体を」「死にたい」「殺せ」「殺した」「お父さん」「痛い」「よこせ」「死ね」
「――なに、何なんですかこれ!」
「花ですね。人を喰う花があると聞いた。多分それでしょう」
「そうじゃなくて! どうして、なに、なにが」
「落ち着いてください」
「あなたは人を殺した!」
動揺のまま吐き出して、すぐに少女は我に返った。足元から恐怖が立ち上ってくる。
「落ち着いてください。私はあなたを殺すつもりはありません。――彼は、そうではなかったようですが」
男は、すでに骸となった老人に視線を向ける。そしてすぐに、目を瞠った。
「ちょっと、失礼」
言うなり少女の体を担ぎあげる。少女が何か言う前に、少し離れた木の影まで離れる。
「なに、」
そのとき、花が動いた。
巨大な口を開き、横たわる老人を周囲の土ごと食った。悲鳴をあげかけた少女の口を、男がふさぐ。
「あまり、騒がないほうがいいかもしれない」
少女は声が出ないように息をつめ、何度も頷いた。
「――ちょっと、ここでおとなしくしていてくださいね」
男は木の影を出、巨大な花の前に立ちはだかった。花が口を開く。
「おまん、何をしちゅう」
花の声は、男の知る老人の声だ。どうやら、食った人間の声を操ることができるらしい。
おそらく彼の娘はこの花に食われたのだ。そして娘の声を操るこの花を、娘ではないと否定できずにいる。花の中に娘が生きているような気がして、餌を与え続けているのだ。何人も何人もその手で殺して。
「さよなら、フジ老人。どうか、娘さんと一緒に」
男は背負っていた剣を抜く。中段に構え、切っ先を花へ向けた。
「死ね」