不思議の国の君
今年、君は高校生になった。
その知らせを聞いたとき、僕は少しだけ驚いた。
もちろん、年齢を考えれば当たり前のことだ。
あの子が高校生になった。
ただそれだけのことなのに、僕の中では君はいつまで経っても三歳くらいの女の子のままだった。
君と初めて会った頃、僕は中学生だった。
君はまだうまく言葉を話せなかった。何か言いたいことがあるらしいのに、口から出てくるのは意味の分からない言葉ばかり。
それでも君は、僕の話をよく聞いていた。
僕が学校で読んだ本の話をすると、隣にちょこんと座ってじっとこちらを見る。
ある日、僕は君に『不思議の国のアリス』の話をした。
「アリスっていう女の子がね、穴に落ちるんだ」
君は目を丸くした。
「うさぎさんを追いかけていったらね、変な世界に行っちゃうんだよ」
君は黙って僕の顔を見ていた。
どこまで理解していたのかは分からない。
でも、僕が話をやめると、
「……う?」
と、小さな声を出した。
「もっと?」
そう聞くと、君は嬉しそうに笑った。
だから僕は続きを話した。
しゃべるウサギのこと。
変な帽子屋のこと。
大きくなったり小さくなったりすること。
そして、元の世界へ帰ってくること。
僕は本に書いてあったことを少しだけ自分なりに変えながら話した。
正確には覚えていなかったし。
君は、それを本当にあったことのように聞いていた。
そして、あの鏡だ。
あれだけは今でもよく覚えている。
ある日のこと。
君は鏡の前に座り込んでいた。
鏡に映っている自分と、ずっと睨めっこをしている。
「何してるの?」
僕が聞くと、君は鏡を指差した。
「……あっち」
「うん?」
「あっち、いる」
鏡の中の自分のことを言っているらしい。
「それ、君だよ」
そう言っても君は納得しなかった。
鏡の向こうにいる女の子は、自分とは別の人間だと思っているようだった。
君は鏡に手をついた。
向こう側の女の子も手をついた。
君が右に動けば向こうも右に動く。
左に動けば向こうも左に動く。
どこまで行っても同じ顔をした女の子がついてくる。
君は楽しそうだった。
僕も面白くなって言った。
「もしかしたら向こう側にも部屋があるのかもね」
「へや?」
「そう。鏡の国」
その瞬間、君の目が輝いた。
「いく!」
「え?」
「いく!」
君は鏡に両手をついた。
そして、一生懸命に押した。
もちろん鏡はびくともしない。
君は何度も押した。
押して。
押して。
それでも鏡の向こうには行けない。
とうとう君は泣き出してしまった。
「うぇーん……」
「ほら、鏡だから無理だよ」
「いくの……」
「行けないよ」
「いくの!」
涙をぽろぽろ流しながら、それでも鏡を押していた。僕はどうしていいのか分からなくてただ隣に座っていた。今思えば、ずいぶん無責任なことを言ったものだと思う。君にとっては、鏡の向こう側に本当に別の世界があったのだろう。そして、そこへ行けないことがとても悲しかったのだ。
それからしばらく、君は鏡が好きだった。
どこへ行っても鏡があると覗き込む。
自分の顔を見て。
向こう側を覗いて。
時々、鏡の中の自分に話しかける。
「また不思議の国に行こうとしてるの?」
僕はそのたびに笑った。
君は意味が分かっていたのか分かっていなかったのか。それでも、いつも嬉しそうに笑った。
もう一つ、よく覚えていることがある。
僕が人差し指を一本立てて「この指とまれ」と言うと、君はどこにいても走ってきた。小さな足で一生懸命に。
時々、途中でつまずく。
転ぶ。
そして泣く。
「大丈夫?」
僕が手を差し出すと君はその手を見て、それから僕の顔を見る。
けれど、いつの頃からか君は僕の手を取らなくなった。
泣きながら、自分で立ち上がるようになった。
膝についた土を手で払い、
何事もなかったように、またこちらへ走ってくる。
「この指とまれ!」
僕がもう一度言う。
君は笑う。
そして走ってくる。
そんなことを何度繰り返しただろう。
やがて僕は中学校を卒業した。
高校へ進んだ。
君とも少しずつ会わなくなった。
いつの間にか君の姿を見ることもなくなった。
僕の中でも、あの頃のことは少しずつ遠くなっていった。
そして今年。
君が高校生になった。
久しぶりに会った君は、もう三歳の女の子ではなかった。
当然だ。
背も伸びていた。
髪も長くなっていた。
話し方だって、すっかり普通の高校生だった。
「久しぶり」
君が笑った。
「うん、久しぶり」
僕も笑った。
それだけの短い会話だった。
けれど、僕の頭の中にはあの頃の君が浮かんでいた。
鏡の前に座り込んでいた君。
鏡の向こうへ行こうとしていた君。
転んで泣いて、それでも自分で立ち上がった君。
そして、僕が指を一本立てると嬉しそうに走ってきた君。
「ねえ」
僕は聞いてみた。
「小さい頃のこと、覚えてる?」
「小さい頃?」
「うん。鏡のこととか」
君は少し考えた。
「……鏡?」
「ほら。ずっと鏡の向こうに行こうとしてたじゃない」
君は笑った。
「え? そう? そんなの覚えてないよ」
「覚えてないか」
「うん」
たぶん、本当に覚えていないのだろう。
それでいいのだと思う。
子どもの頃にしか見えないものがある。
大人になれば、鏡はただの鏡になる。
空はただの空になる。
物語は物語になって、夢は夢になる。
不思議の国なんて誰も本気で信じなくなる。
僕だって、もう鏡の向こうに別の世界があるなんて思っていない。
それでも。
時々、ふと思う。
あの頃の君が見ていた鏡の向こうには、本当に何もなかったのだろうか、と。
もし、あのとき。
君が鏡の向こう側へ行けていたら、そこにはどんな世界があったのだろう。
しゃべる動物がいたのかもしれない。
空を飛ぶ魚がいたのかもしれない。
僕たちの知らない町があったのかもしれない。
そして、そこでは三歳の君が今でも笑っているのかもしれない。
もちろん、そんなことはあり得ない。
そんな世界が本当にあるはずがない。
誰もがそう言うだろう。
僕も、そう思う。
でも。
僕たちはみんな、いつかそこを通り過ぎる。
子どもの頃にだけ見えていた不思議な世界。
何でもない鏡の向こう側に、別の国があると信じられた頃。
星を見上げれば、星の向こうに物語があると思えた頃。
転んで泣いても、立ち上がればまた冒険を続けられた頃。
あの世界は消えてしまったわけではないのかもしれない。
ただ、僕たちが大きくなって見つけられなくなっただけなのだ。
君が高校生になった今年。
僕は久しぶりにあの頃のことを思い出した。
君はもう、鏡の向こう側へ行こうとはしない。
僕が「この指とまれ」と言っても、きっと笑うだけだろう。
それでも僕の記憶の中では、君は今も小さな女の子のままだ。
鏡の前に座っている。
向こう側の自分と睨めっこをしている。
そして、僕が指を一本立てると――
嬉しそうに笑ってこちらへ走ってくる。
不思議の国の君。
君はもう、あの頃のことを覚えていない。
でも僕はたぶん忘れない。
あれはきっと、誰もが一度は通り過ぎる国だった。
大人になった僕たちにはもう戻れない。
だからこそ。
あの頃の君が見ていた世界を、僕はいつまでも覚えていたい。
終




