第32話 お作法のレッスンだよ
フォークはまだこの時代普及していない。ナイフで食べるのだ。実際、安全とは言えない。だからこの時代手づかみは普通に容認されている。親指と人差し指、中指の三本でつまむのが優雅とされている。だが、それでもまだ、はしたない。
それがどれほど世の中の美意識の中で、違和感の生じない振る舞いだったとしても、指を汚さないのが淑女のあるべき姿、それがモルガナの美意識なのだ。
シルバーフォックスナイフが鋭利な刃で肉を切る。細くて白い指がそれをつまむ。なるべく指の触れる面積を少なくし、ナイフを入れてからそれをつまみ、口へ運ぶまでプロセスに無駄がない。指の汚れも最小限。
ニヤリとするリーガン。
食事とは命を頂くことだ。だから血の通っている自らの指を使うべきなのだ。ならナイフで口に運ぶのはいいのか?
そう思った人は正しい。価値観は文化の成熟と共に揺れている。今はその揺れがもっと大きく振れるその時期なのだ。
その汚れた指は、――はしたない。淑女とは、言えない。
そこでモルガナはレイピア形状のナイフをもう一本用意してきたのだ。刺すことは容易だが、それ以外の部分は刃を落としてあり、口内を傷つけることはない。食事専用のカトラリーの先駆けだ。カット用のナイフ、そしてピック用のレイピア状ナイフ。
「べ、勉強になるわ……」
モルガナから二本用意されたナイフの意図を聞いてヴェロニカが感心した。それにグリップにアルダンフォーク家の紋章をわざわざ入れてくるこの心遣い。この場における家名のアピールの重要性を熟知した振る舞いだ。
いくら金持ちはいえ……。
ヴェロニカは感動した。自分が冒険者として初心者を導こうとした志の理想形を見たように思える。
やがてモルガナが鞘からナイフを抜いた。鞘から抜き放たれたその刀身。
盗み見ていたリーガンの表情が凍りつく。ヴェロニカの瞳が見開かれる。
このナイフは……。
魔法剣士であるヴェロニカには分かる。このナイフには魔力が付与されている。迷宮での戦闘に耐える、というか、かなり高価なマジックアイテムだ。恐らくは平民なら何十年かは遊んで暮らせるほどの金銭的価値がある。そういうナイフだ。いや、正確な価値は不明だ。見たこともないくらい。或いは過去に見た最高の魔法剣を遥かに凌駕するくらい。
テーブルの一同も気付いた。アルダンフォーク家の用意したナイフは、違う。
シルバーフォックスのそれは凍てつく岩肌の厳しさが刀身に宿っているかのよう。
アルダンフォークのそれ、まるで鞘から抜いた瞬間、部屋の温度が下がったかのよう。冷気そのものが刃の形をなしていた。試みに料理の肉に宛がうと、それはまるでバターにでも沈むかのように、刃が抵抗なく通った。
ヴェロニカは切れ味を知ってさらに戦慄した。こんなものを口中に入れることなど出来ない。いや、そのためのもう一本のレイピア状ナイフなのだ。左手にカット用のナイフ。右手のレイピア状ナイフでピックして口元に運ぶ。
美女の優雅な佇まいは周囲のため息を誘う。その繊細な所作は、この時代の食事の作法そのまだ揺らぐ価値観を、あるところに固定しうるもの。そして手にしたその食器は、文化と時代を一歩、先へと進めえるものだった。この国のもっとも影響力を持ち得る場において、それは披露されたのだ。
リーガンは顔面蒼白となって、やがて俯いた。
小さく震え、そして涙を堪えているように思う。ここに至ってヴェロニカはリーガンへの認識を改める。リーガンは理性なき狐などではない。風情も知れば、優劣もきちんと理解し呑みこめる理性の持ち主だ。そうでなくては俯かない。そうでなければ涙を堪えることなどないのだから。
「おお、これはアルダンフォーク家のヴェロニカ嬢。お初にお目にかかります。第二王子、マクシミリアンです。にしてもすごいナイフをお持ちだ。私のと交換してもらえませんか?」
あわわ、油断していた。なんと第二王子だ。
目を白黒させたヴェロニカだが隣にモルガナがいると意識した瞬間、我に返った。ここまで完全におんぶに抱っこ。これではいけないと背筋を伸ばす。
「第二王子様、ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。アルダンフォーク伯爵家長女、ヴェロニカで御座います。御所望のナイフですが、こちらは大事な友人からの借り物でしてお渡しすることが叶いません。後日、借り物ではない、私精一杯の贈り物を御用意致しますのでこの場はそれでお納めくださいますようお願い致します」
おお、なんと立派な……。
成り行きを見守っていたモルガナも毅然としたヴェロニカの態度に感心したのだった。
「な、何だと……。ま、まあいい。それでキミの精一杯の贈り物とは?そのドレスから零れ落ちそうな二つの果実かな?それならまあ、考えても……」
とまで言ったところでモルガナが立ち上がる。立ち昇る気炎にリーガンさえも固唾を呑む。
「マクシミリアン王子。わが主、アルダンフォーク嬢の果実を御所望とのことですが、ついばんで散らかすつもりなら禽獣と変わりません。種を植え、芽吹くまで育て、王子がいつ枯れるまで、深く愛でる責任を果たしてくれましょうや?」
「そりゃあ、もう……。種なら早速にでも」
王子の手がヴェロニカに延びる。正確にはヴェロニカの胸に延びた。その瞬間、モルガナの平手が王子の頬を打ち、会場が静まり返った。小さな手形が赤く染まる。思いのほか、小さく、そして細い。
「モ、モルガナ……」
さすがにヴェロニカもオロオロしている。
「お、お前、誰に何をしたか……」
「無論存じ上げております。マクシミリアン王子」
「な、なら……」
「王子。本日の目的をお忘れですか?」
「目的?」
怪訝そうなマクシミリアンの様子にモルガナがふっと笑う。
「今日の開催は第一王子の要望によるもの。そうでしょ?」
「それはそうだが……」
第一王子の目的は二つ。第二王子が主催することにより、両王子を対立させようと目論んでいた勢力を炙り出す事。モルガナは知っている。
彼女が奇跡の魔法を使って若返る前からそのような動きは活発化していたのだから。つまりウィステリアとして知っている。その記憶は失われていない。
そしてもう一つが第二王子の存在感を高めることだ。




