第26話 ウィステリアの記憶
ゼリオールは貴族として幼少期を過ごし、その期間に魔法を学んだ。だが、貴族である彼の家は農奴との関係をこじらせ、領内の反乱を招いた結果、当主は殺害され、王国に領地を召し上げられたのだ。
ゼリオール少年はその後の人生を冒険者として過ごし、冒険者の間で知らぬものはいないほどの存在になったのだ。
「高名な魔女、ウィステリア様にお目通りが叶い、光栄で御座います」
「私で合っていますか?夜明けの塔に住む魔女もウィステリアという名だそうですよ」
「はは、まさか。私にとっての生涯の目標は黒い魔女ウィステリアさまで御座います」
「生涯?つまらないものに人生を掛けるつもりなら、今ならまだ取り返しがつくから考え直しなさい」
熱弁する壮年の日のゼリオールに、黒い魔女はそういってたしなめた。分厚い絨毯の敷かれた王宮の一室。その窓からは黒い魔女の塔、彼女が普段過ごす夕暮れの塔が見える。
ああ、あの日のゼリオールか。随分ふけちゃって、まあ……。
思い出した。彼の情熱を否定したのがあの日の自分だ。
「えーと。ゼリオールさんでしたか。王宮に仕えてどうなさるつもりですか?」
「この地にウィステリアさまのような強大な魔法使いを生む文化をあなたと共に作り上げたいのです」
「なるほど。あなた、それなりに人生経験を重ねた顔つきは好ましいものの、魔法に関してはまるで赤ちゃんね」
「え」
「魔法が普及すれば世界は不幸になる可能性が増す。災いを招く機会が増える。そんなことも分からないとは……」
「な……。私は10年前に見ました。王国とアスラン公国との緊張が高まる中、あなた様が両軍対峙するそのど真ん中に現れた」
忘れたくても忘れられない光景だった。
手を伸ばせばうっかり触れてしまいそうな黒くて低い雲。その雲が割れ、地表を差す光の帯の中に姿を現し。地上に降り立ったのが黒い魔女ウィステリアだった。
「アスラン公国の皆様。ご機嫌麗しゅう。あたしは王国宮廷魔術師、ウィステリア。本日は皆さまに一歩退くことの素晴らしさ、有益さを僭越ながら御教示に参りました」
小柄な体なのに声がよく通る。高齢と聞くがその割に見た目と声が若い。傭兵として参加していたゼリオールは軍の先頭に配され、そのためその光景を最前列で見ることが出来ていた。
「ごらんなさい。この後のあなたたちの態度次第ではこの炎の矛先を自分達から逸らすことが出来る。その価値を知る機会を提供します。原初を生みし生命よ、その女神よ。ちぎりの時にいま至れり。されば我が求めに応じ秘めし深淵の炎を呼び覚まさん。インフェルノズ・ラース、うりゃ」
魔女が指し示いた丘で大爆発。黒煙が沸き立ち、黒煙の中を稲妻が駆けまわる。そして火柱が立ち上がり炎の竜巻となって暴れ狂う、凄まじい強風が旗を吹き飛ばしていく。赤黒い炎の柱が、雲を突き上げ貫いた。熱が風を起こし、風は炎をより高く舞い上げる。竜巻状にうねる巨大な炎の柱の内部で、稲妻がそこから逃れようとするかのように暴れ回る。地獄の光景に敵味方両軍が恐怖し、太い硬直が彼らを貫いている。身じろぎを許されぬまま、滴った汗が地面にシミを点ける。
「ぱちん」
魔女は口に出して言いながら指を鳴らした。ゼリオールの記憶では指のほうは音を発しなかったと思う。口で言うだけで、指鳴らしは出来ていない感じだったのに。
なのにその瞬間、炎の竜巻は瞬時に掻き消え、稲妻は逃亡し、空を覆う黒い雲が晴れて青空と太陽が顔を出したのだ。森林を黒く焦がしていく残り火さえすでに消えている。
「うわあああッ!この魔女めえッ」
両軍の全員が呆気にとられている中、張りつめた恐怖の爆ぜた誰かが弓を放った。
びいぃぃん。
魔女の顔面に当たる直前で矢は停止した。見えない壁にでも刺さったかのように。
「良い腕ね。今日だけ見逃してあげる。さ、他に抵抗と蛮勇を試す者はいるかしら?そのつまらない好奇心の対価は命で支払ってもらうけど、試したいなら試しなさい。信じられないくらいのド派手な最期を演出してあげる」
もう誰も魔女に逆らう者はいなかった。膝を折って地面に跪き、恭順を示すその姿勢はアスラン公国軍全軍に広がっていく。
「あとはお前たちでうまくまとめなさい」
王国軍にそう告げて魔女は姿を消した。
「あの日あなた様はたった一人の命も奪うことなく、戦争を回避し、そして事態を決着させた。あれこそ魔法がこの世の希望である証し」
「犠牲はあったのよ。魔法を放った周辺には人間はいなかった。でも人間以外の生き物はいた。人間同士の殺し合いを避けるため、他の種族の命を奪ったのよ。正しいことじゃなかった。そして正しいことを知れるほどには、私は成熟していなかった。分かる?あなたは正しくなかったあの日の私にさえなれない。そうなる前に命が尽きる。あなたが悪いのではなく、寿命の定めがある以上仕方のないこと」
黒い魔女ウィステリアの言葉にしばし沈黙のゼリオール。そして絞り出すように言う。
「なら魔法使いはその生涯において、最初から最後まで正しくない存在のままであると?」
「そうよ。より正確に言えば魔法使いじゃなくて、魔力に関わる者すべて。魔力と関わることで世のことわりのバランスが崩れるのに、誰もそれに気付けない。バランスが崩れればことわりが乱れる。それが災いを招く。不幸を増やすのよ。ゼリオール。もう少し簡単に言うわ。あたしが生きている限り、あなたは宮廷で何もできない。あたしが何もさせない」
「そんな……。あなたは私の生涯の目標だ」
「お前などあたしから見れば……」
あの後何と言葉を継いだのだっけ?よく思い出せない。きっとひどいことを言ったのだ。
彼は王宮に結局仕えなかった。幼少時に家が没落し、困窮の中で這いあがった彼は、王宮に仕えることで、少なくともその期間は安定した暮らしが出来たはずだ。
今になってそれさえも後悔の一つになる。後悔とは。どちらがより正しいか、今なお分からないのに、彼に決断を強いたという意味において。
「モルガナさん?もしかしてですが、以前お会いしたことが?」
不意にゼリオールが質問してきた。




