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天気予報士というのは、現代におけるシャーマンだ。
彼らが「晴れ」と予言すれば市民は洗濯物を干し、「雨」と予言すれば傘を持つ。社会の行動様式をコントロールする権力者と言ってもいい。
だからこそ、その予言が外れた時の罪は重い。
17時。世界は水没していた。春の嵐による横殴りの雨が、草葉駅の頼りないホームを容赦なく叩きつけている。
僕たちはいつものベンチではなく、ホームの端にある古びた待合室に避難していた。待合室といっても、アルミサッシと曇りガラスで囲われただけの、電話ボックスに毛が生えた程度の空間だ。
定員は四名だが、今の人口密度は二名。僕と、先輩だ。密室。湿気。そして、不機嫌な美少女。最悪の密閉空間である。
「……湿度が、飽和してる」
先輩が、曇ったガラス窓に指で数式を書きながら言った。
「100パーセントだよ。つまり、ここはもう空気中じゃなくて水中ってこと」
「物理法則を無視しないでください。まだエラ呼吸は必要ないです」
「時間の問題だよ。さっきから私の髪の毛が、大気中の水分を吸収して膨張を始めてるのがわかるから。あと10分もすれば、私はアフロヘアーの深海魚になる」
「ははっ! それはそれで見たい気もしますけど」
先輩はジロリと僕を睨むと、自分の長い黒髪を両手で強く押さえた。彼女は湿気を憎んでいる。
正確には、湿気によってベースのネックが反ることと、自分の髪がうねることを、親の仇のように憎んでいるんだろう。
「電車、来ないですね」
「スマホ見た? 倒木だって」
「倒木!?」
僕の驚き具合とは対照的に先輩がコクリと小さく頷いた。
「ん。風速20メートルの風が、線路脇の脆弱な杉の木をへし折ったらしいよ。杉花粉を撒き散らすだけじゃ飽き足らず、私の帰宅まで阻むなんて、杉の木は前世でどんな大罪を犯したわけ?」
「植物に罪はないですよ……」
運転見合わせ。再開の目処は立っていない。いつもなら、上りと下りの電車がすれ違うまでの15分間で解散だ。
けれど今日、そのタイムリミットは消失した。
「帰り……どうするんですか?」
「ん。私はもう親に連絡した。車で迎えに来てもらうよ」
「なるほど……」
「キミはあてはあるの?」
「僕も親に連絡します」
「そっか」
親にメッセージを送る間、雨が屋根を叩く音だけが、BGMとして流れている。
バララララ、という銃撃のような激しい打撃音。会話が途切れると、その音がやけに大きく聞こえた。
狭い待合室の中、先輩の制服からは、微かに濡れた布の匂いと、甘いシャンプーの香りが漂ってくる。距離が近い。
僕は視線のやり場に困り、曇りガラスの向こうの、灰色の景色を眺めた。
「……ポリリズムだね」
不意に、先輩が言った。
「はい?」
「雨の音。屋根を叩く音は16ビートなんだけど、窓ガラスに当たる音は3連符になってる。天然のポリリズム」
「よく聞き分けられますね」
「耳をすませば聞こえるよ。世界はリズムでできてるんだから」
彼女は目を閉じ、指揮者のように小さく指を振った。
「風の音がシンバル。遠くの雷がバスドラム。……悪くないセッションだね。ちょっとBPMが速すぎて落ち着かないけど」
「自然現象相手にグルーヴを求めないでください」
「や、求めてないよ。ただ、分析してるだけ」
彼女は目を開けると、ポケットから有線イヤホンを取り出した。いつものヘッドホンではない。
彼女は片方のイヤホンを自分の耳に入れ、もう片方をぶらりとさせたまま、僕を見た。無言の圧力。
「……つけろと?」
無言で先輩が頷くと僕は黙ってそれを受け取り、左耳に入れた。
流れてきたのは、ピアノだけの静かな曲だった。雨音のノイズに、透明なピアノの旋律が重なる。
『Goldmund』。静謐なアンビエント・ミュージック。外の嵐が嘘のように、耳元だけが静寂に包まれる。
「……これなら、湿気に負けないと?」
「ん。乾燥剤代わり」
先輩は小さく頷き、壁に背中を預けた。会話はない。ただ、同じ音を聴き、同じ雨を見ている。
本来なら気まずくなるはずの沈黙が、不思議と心地よかった。彼女がここにいる。僕がここにいる。電車は来ない。それが、どうしようもなく「正解」であるような気がした。
10分、20分。あるいはもっと長い時間が過ぎたかもしれない。ふと、雨足が弱まったその時、後ろの駐車場から車のクラクションが聞こえた。
どうやら先輩の親が迎えに来たらしい。
「……あーあ」
先輩が、イヤホンを外しながら大きく伸びをした。
「やっと解放される。深海魚にならずに済んだね」
「残念です。アフロヘアーの先輩、写真に撮りたかったんですけど」
「ふふっ。肖像権の侵害で訴えるから」
彼女は鞄を持ち直して立ち上がる。
待合室を出ようとしたその時、彼女が足を止めた。背中越しにボソリと言った。
「……まだ」
「え?」
「まだ来なくてよかったのにね。お母さん」
雨音にかき消されそうな、小さな独り言。
「空気読めないよね。せっかくいいアンビエントが流れてたのに」
「……そうですね」
彼女は振り返らず、そのまま駅舎の外へと歩き出す。
ガラス越しに見えた先輩は車に乗り込んだところだった。
もういつもの「氷の美少女」の顔に戻っていたけれど、耳にはまだ、あの白いイヤホンが刺さったままだった。
◆
「三咲! 三咲〜!」
車が走り出すなりお母さんが運転席から名前を呼んできた。
私はイヤホンを外して仕方なく「何?」と答える。
バックミラー越しのお母さんの目は明らかにゴシップを狙っている人のそれだ。
「さっき、待合室に誰かといなかった?」
「さあね。誰もいなかったんじゃない?」
「へぇ……そっかぁ……」
「何?」
「何でもないよ〜」
私はニヤニヤしているお母さんの背中に向かって「……来るの、早いんだって」と小さく呟いた。




