4
学校の廊下で、モーセの海割りのように人が左右に分かれていた。
理由は、廊下の向こうからやってきていた先輩。午後の眠気から来るのか、気だるそうな目つきで教科書をもって移動している。
彼女のために道を開けたというよりは、思わず見とれてしまったというのが正しいのだろう。
全員が芸能人でも見るかのようにじーっと先輩を見ている。
先輩は以前に言っていたように、そんな人たちは視界に入っていないように前を向いて歩いていた。
しかし、俺を見つけた途端に態度が変わる。目を合わせて口元だけでにやりと笑ったのだ。
言葉は交わさない。だけど、確かにそれが友人という証に思えて僕もにやりと笑い返した。
◆
四日目ともなると、もう習慣化したと言っても良い。
17時すぎの草葉駅で僕は無人の改札を抜け、ホームへ向かう。そこには当然のように、ベースの入ったギターケースを脇に置いてベンチに座っている彼女がいた。
今日の彼女は文庫本もスマホも持たず、ただ自分の左手の指先を、宝石鑑定士のような深刻な顔つきで眺めていた。
「……何してるんですか?」
僕が声をかけると、彼女は視線を指先から外さずに答えた。
「あ、廊下棒立ちニヤケ男だ」
「変な愛称やめてくれます!?」
「や、鳥取砂丘コナン空港よりはマシだよ」
「それは否めませんね……けど何があるかって観点ならいい勝負してません?」
「鳥取には鳥取砂丘とコナンしかないし、キミには廊下棒立ちニヤけ顔しかないってことになっちゃうよ?」
「僕にはそれしかないんですよ……」
僕の言葉に思わず先輩が噴き出した。
「ふはっ。そんなに卑下しなくていいのに。いっぱいあるよ? キミの魅力」
「本当ですか? 例えば?」
「んー……」と先輩は顎に人差し指を当てて考え始めた。
少し間を開けて彼女は口を開いた。
「無意識に入り込んでくる」
「なんかすごい超能力ですね!?」
「や、そうなんだよね。本当に」
「無意識に……」
「なんかさ。何を聞いてても、『あ、これは駅のあの子におすすめしなきゃ』とか『今日にやけてたな』とか『今日廊下で棒立ちしてたな』とかそういうこと考えちゃうんだ」
「後半はいじってますよね!?」
「ふふっ。けど、ない? そういうこと。別に好きとかじゃないのに、言い過ぎてないかなとか、妙に気を使っちゃう感じ」
「あー……ありますね。微妙な距離感の――なんでもないです」
「ふふっ。私達、微妙な距離感だもんね」
「一旦この話はやめましょう。それで、何してたんですか? 手をじっと見て」
「指紋の安否確認」
「事件性がありそうな響きですね」
「そろそろ消滅しそうなんだよね、私のアイデンティティが。人差し指と中指の指紋が摩耗して、ツルツルになってきてるから」
「ベースの弾きすぎですか?」
「これは名誉の負傷じゃないよ。ただの金属との摩擦熱によるデコレーション」
彼女はふぅ、と息を吐き、左手を僕の目の前に突き出した。白く華奢な指。しかし、その指先だけは硬く、皮膚が厚くなっている。それは紛れもなく、ベーシストの指だった。
「触ってみて」
「いっ、良いんですか?」
「ふふっ……『いっ、いいんですかっ!?』ってそんなキョドらなくても。減るもんじゃないしいいよ。友人じゃないか、私たちは」
「なっ、なら失礼します……」
俺は先輩の手に触れる。柔らかい手だが、日々金属と格闘している指先だけは別だった。
「……結構、固くなってますね」
「でしょ。これでスマホの指紋認証が通らなくなったら、私はデジタル社会から追放されることになるわけ」
「パスコード入力すればいいだけですよ」
「アナログへの回帰だね。……で、キミは?」
「僕はギターなんで、左手の指先はもっとボロボロですよ」
「そっか……」
彼女は僕の顔をじっと見た。
「キミ、どこのメーカー使ってるの?」
「フェンダーです」
「や、弦だよ弦」
「ああ、弦ですか。今はダダリオですね」
「ダダリオ……ふーん」
彼女は興味なさそうに鼻を鳴らした。どうやら不正解だったらしい。
「あのパッケージのカラフルなボールエンドを見ると、目がチカチカするんだよね。色で弦を識別させるなんて、子供騙しみたいじゃない?」
「便利ですよ。張り替える時に間違えないですし」
「甘えだよ。太さを指先の触覚だけで識別してこそ、真の弦楽器奏者でしょ。0.45ミリと0.65ミリの違いがわからない指で、繊細なゴーストノートが刻めるわけないし」
「弦交換にそこまでの精神統一を求めてるんですか……」
彼女はベンチに深く座り直し、足を組んだ。
「ちなみに私はエリクサー。ちょっと高いけど、長持ちするからね」
「あー……お小遣いがいくらあっても足りませんよね」
「ん。そうそう。熟成肉みたいなものだよ」
「熟成肉……」
彼女の独自理論は今日も絶好調だ。弦を熟成肉に例える美少女なんて、世界広しといえども彼女くらいだろう。
「けど、確かにベース弦って高いですよね」
「ん。前は毎月張り替えてた」
「それ、破産しませんか?」
「だから、茹でるの」
「……はい?」
「死んだ弦を鍋で茹でるの。そうすると、手垢と油が落ちて、少しだけ音が復活するから」
「……先輩、それ昭和のバンドマンの知恵袋ですよ」
「知恵じゃない、錬金術だよ」
彼女は真顔で言った。想像してしまった。学校では「氷の歌姫」と呼ばれ、誰も寄せ付けない気高さを誇る彼女が、家のキッチンでぐつぐつとベースの弦を煮込んでいる姿を。
エプロン姿で、菜箸で弦をつまみ上げ、「まだアルデンテかな」とか呟いているのだろうか。
俺がそんな姿を想像して一人で笑っていると、隣からジト目で先輩が睨みつけてきた。
「……笑ったでしょ? 今」
「いえ。生活の知恵だなと感心してました」
「嘘だね。顔に『弦の出汁とってどうするんだ』って書いてある」
「そこまでは思ってませんけど、煮汁は飲みたくないですね。茹でる時はエプロンつけてるんですか?」
「つけるわけないじゃん、ばーか」
彼女は「失礼なやつ」と呟きながらも、どこか楽しそうだ。
「ね、キミ」
「はい」
「今度、余ってる弦あげるよ」
「え、いいんですか? 煮込んだやつじゃないですよね?」
「新品だよ。ゲージを間違えて買ったやつがあるから。ギター用じゃないけど、お守りにすれば?」
「ベース弦をお守りにする文化は聞いたことないですけど」
「極太の4弦を持っていれば、いざという時に首を絞めて暴漢を撃退できるでしょ」
「物騒な用途を推奨しないでくれます!?」
カン、カン、カンと踏切が鳴る。
「……あーあ。またこの時間」
彼女は立ち上がり、スカートの埃を払った。
「じゃあね、キミ。明日には指紋が復活するように祈っといて」
「善処します」
電車が来る。彼女は乗り込む直前、振り返ってニヤリと笑った。
「あ、そうだ。茹でた弦の煮汁だけどさ」
「……はい」
「シンクに流すと『ビィーン』って音がするんだよ。結構いい倍音が出るから、今度録音してあげる」
「丁重にお断りします」
ドアが閉まる。走り去る電車を見送りながら、僕は自分の指先を見た。
自分の少し硬くなった皮膚には、まだ先輩の手の感触が痛いほどに残っていた。




