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翌日の学校で、僕は透明人間としてのスキルを遺憾なく発揮していた。
クラスメイトの会話の輪には加わらず、かといって排斥されているわけでもない。
教室の壁紙のシミと同じくらいの存在感で、僕は平和な一日を過ごしていた。
ただ、一つだけ誤算があった。昼休み、購買への移動中、廊下で駅で話した例の先輩とすれ違ったのだ。
周囲の視線が彼女に釘付けになるのが分かった。
「今日も可愛いな……」
「しっ! 睨まれたら氷になるって噂だぞ!」
廊下にいた男子たちがにわかに色めき立ち、前髪をいじり始める。
本人は何もしていないのに人を動かすほどに彼女は今日も完璧だった。
制服のプリーツスカートはミリ単位で整えられ、長い黒髪は重力に従順で、背中に張り付いている。
襟元のリボンの色からして二年生だが、その纏っている空気は学年という枠組みを超越し、どこかの王族のような気品すらある。
友人の女子数名と歩いていた彼女は、前方から来る僕を視認したはずだ。僕は一瞬、昨日の夕暮れ時のあの熱っぽい表情を思い出し、軽く会釈をする準備をした。
だが、それは徒労に終わった。彼女は瞬き一つせず、僕の横を通り過ぎたのだ。無視、というレベルではない。
僕という物質が透過し、彼女の網膜には背景の壁しか映っていないかのような、完全なる「非認識」。
すれ違いざまに香ったのは、昨日のような古い紙の匂いではなく、冷たく研ぎ澄まされた制汗剤の匂いだった。
なるほど、昨日のあれは幻覚だったらしい。
あるいは、狐か何かが美少女に化けて、僕のイヤホンジャックに悪戯をしただけだ。
僕は納得し、午後の授業をすべて睡眠学習に費やした。
◆
放課後。17時過ぎ。僕はいつものように草葉駅のホームに立った。世界の余白。誰にも邪魔されない聖域。昨日の出来事は夢だったのだと自分に言い聞かせ、ベンチを見る。
そこには、不機嫌そうな顔で文庫本を睨みつけている美少女がいた。やはり、幻覚ではなかったらしい。狐にしては顔面偏差値が高すぎる。彼女は僕の足音に気づくと、本をバタンと閉じ、開口一番に言った。
「遅い」
挨拶もなしに、遅刻の指摘。声のトーンは低く、抑揚がない。
「電車の時間はまだですけど」
「キミが来るまでの時間のこと。私がこのベンチに座ってから、アコースティックギターのチューニングが三回狂うくらいの時間が経過したんだけど」
「湿度が高いんですかね」
「私の忍耐力の話」
先輩はベンチの端を指先でトントンと叩いた。座れ、という合図らしい。僕は言われるがまま、隣に腰を下ろした。
「……あの、昼間、学校ですれ違いましたよね」
「そう?」
「完全に無視されましたけど」
「無視じゃないよ。省電力モードだから」
彼女は鞄から愛用のヘッドホンを取り出しながら、気だるげに言った。
「学校って、私にとってはノイズの塊なんだよね。他人の話し声とか、チャイムの音とか、先生の説教とか」
「だから視覚情報をシャットダウンしたと?」
「必要最低限の処理能力しか割り当ててないだけ。友達以外の認識優先度は、廊下の消火栓と同じレベル」
「消火栓ですか。いざという時は役に立ちますよ」
「ふふっ……じゃ、火事になったらキミに声をかけるよ」
先輩はふふっと笑うと首にかけたヘッドホンを自分の頭につけて僕の方を顎で指してきた。僕のスマホに繋げという意味らしい。
「昨日の続き。キミのプレイリスト、まだ審査が終わってないから」
「審査制なんですか……?」
「当たり前でしょ。昨日のtoeが一発屋のまぐれ当たりだった可能性を排除しないといけないし」
「厳しいですね……」
僕は苦笑しながら、スマホのロックを解除し、プレイリストを開いた。彼女がジャックを差し込む。有線で繋がった二人の距離は、学校での「消火栓と通行人」より遥かに近い。
「で、今日は何を聴かせてくれるわけ?」
「じゃあ、これで」
僕は『LITE』の曲を再生した。ソリッドで攻撃的なギターリフが鳴り響く。瞬間、先輩のまぶたがピクリと動いた。学校でのクールな仮面はそのままに、瞳の奥だけがギラリと光る。
「……ん、『LITE』だね」
「正解です」
「キミ、わかってるね。昨日のアコースティックな流れから、今日はソリッドなマスロックで攻めてくるあたり、性格が悪そうで信用できるよ」
「性格が悪いのは褒め言葉じゃないです」
「褒めてるんだよ。この変拍子のキメ、聴いて。一六分音符の食い方がエグいから。これを聴くと、三半規管が喜んでるのがわかる」
「三半規管は平衡感覚を司る器官なので、喜ぶと逆に酔うと思いますけど」
「酔ってるんだってば、音に。言葉尻を捕まえないで」
彼女は嬉しそうにヘッドホンを押さえ、リズムに合わせて小さく爪先を動かし始めた。夕暮れのホーム。カラスの鳴き声。そして、無表情のまま小刻みに揺れる美少女。
学校ではあんなに遠い存在だったのに、ここでは物理的な距離以上に、精神的な距離がバグっている。
「……先輩」
「なに。今、ベースラインが動くところなんだけど」
「学校では、話しかけない方がいいんですか?」
「ん。当たり前でしょ」
彼女は目を閉じたまま、即答した。
「学校での私は『氷姫』だか何だか知らないけど、そういう完成されたパッケージ商品なわけ。中身がこんな、変拍子で興奮する音楽オタクだとバレたら、商品のブランド価値が暴落するし」
「偽装表示ですね」
「企業努力って言ってよ。……でも」
彼女は片目だけを開けて、気だるげに僕を見た。
「ここなら、返品不可のアウトレット品として扱ってあげてもいいけど」
「光栄……なんですかね、それは」
「特権だよ。世界で一番静かな場所で、世界で一番うるさい音楽の話ができるんだから」
彼女は再び目を閉じ、音楽に没入し始めた。僕はため息をつきつつ、自分の左耳に入れたイヤホンを直す。
15分間だけの共犯関係。学校では他人のふりをして、放課後の無人駅でだけ密会する。なんだか、とてもいけないことをしているような気分になった。そして、その背徳感は、決して嫌なものではなかった。
遠くから踏切の音が聞こえる。僕たちの短い時間が終わる合図だ。
「……あ、もう一本後の電車にするから、このままでいい?」
「え?」
「この曲、あと三分あるんだよね。途中で切ったら、末代まで祟るよ」
「それは困ります」
結局、先輩は一本電車を見送ることにしたらしい。世界の余白は、もう少しだけ延長された。
「また……学校で話しかけてもいいですか?」
先輩はじっと僕の方を見てくる。
「……ふふっ。さっき言ったじゃん。『友達』以外は無視するって」
「あ、じゃあ無視される……」
「ふふっ。ううん。toeにLITE。キミを無視する理由がないよ」
その言葉に驚いて顔を上げる。勢いで引っ張られたイヤホンが耳からぴょんっと飛び出した。
「それは……」
「ん。一応……友達と……思い始めた。ごめんね、無視しちゃって」
少しだけ顔を赤くした先輩が可愛らしいウィスパーボイスでそう言った。
「それは……僕もです」
こうして僕たちは『友達』というラベルを手に入れた。
僕たちはまだ、お互いの名前すら知らないままなのに。




