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カレンダーという発明品には、悪意が潜んでいる。
特に四月の終わりから五月の頭にかけての並びは、労働者と学生を甘やかすと同時に、ある種の社会的な断絶を生み出すように設計されている
ゴールデンウィークという煌びやかな名称がついているが、その本質は「一週間の空白」だ。学校という強制力が消滅し、通勤・通学というルーティンが一時停止する。それはつまり、僕たちの「15分間」の消滅を意味していた。
17時過ぎの草葉駅。明日から連休に突入するというのに、先輩の表情は、地球滅亡まであと三日と告げられた予言者のように暗かった。
「……バグだよ」
先輩は、手元のスマホのカレンダーアプリを親指で執拗に連打しながら言った。
「一週間も休みがあるなんて、設計ミスとしか思えない」
「国民の祝日に関する法律に文句を言っても始まりませんよ。普通は喜ぶところです」
「喜べないよ。一週間も学校がないってことは、一週間もベースの弦を張り替える口実がないってことでしょ」
「家で張り替えればいいじゃないですか」
「緊張感が違うんだよ。スタジオに行くかもしれない、という可能性があるから、私は弦を張り替える気になるの。家でパジャマ姿のまま張り替えても、ただのメンテナンス作業にしかならない」
先輩は深くため息をつき、ベンチの背もたれにぐったりと寄りかかった。
彼女の憂鬱の正体は、弦の話だけではない。僕も気づいている。学校がないということは、電車に乗る必要がないということだ。
電車に乗らないということは、この駅に来る理由がなくなるということだ。
「……暇になりますね」
「暇じゃないよ。絶望的な空白だよ」
彼女は空を見上げた。
「一週間、誰とも音楽の話をせずに過ごしたら、私の言語野は退化して、『ヤバい』と『エモい』しか喋れない語彙力欠損モンスターになってしまう」
「それは困りますね。連休明けに先輩がギャル語しか喋らなくなってたら」
「ふふっ。でしょ? だから対策が必要なわけ」
彼女は身体を起こし、僕の方を向いた。その瞳が、真剣な光を帯びている。
「ね、キミ」
「はい」
「連休明け、五月七日の月曜日」
「はい」
「絶対に来て」
それは命令であり、懇願だった。
「もしキミが来なかったら、私はその辺の田んぼに向かってベースアンプをフルテンで鳴らして、害鳥駆除の周波数を撒き散らすことになるから」
「近所迷惑なのでやめてください。行きますよ、ちゃんと」
「……本当に?」
「通学路ですから」
「通学路じゃなくても来て」
彼女は食い下がった。いつものダウナーで余裕のある態度はどこへやら、今の彼女は迷子になることを恐れる子供のようだ。
この場所での15分間が、彼女にとってどれほど生活の重要なファクターになっているか、痛いほどわかる。
「行きますよ。必ず」
「……ん」
先輩は僕の目を数秒間じっと見つめ、それからぷい、と視線を逸らした。
「……なら、よし」
カンカンと踏切の音が鳴り始める。
連休前、最後のチャイムだ。
先輩が立ち上がる。いつもなら、ここで「じゃあね」と言って別れる。けれど今日は、先輩は一歩も動かなかった。
「……ねえ」
意を決して絞り出したような、か細い声。
「はい」
「不便なんだよね」
「何がですか?」
「『キミ』って呼ぶの。二人称として安定しないし、もし駅に他の『キミ』がいたら混線するでしょ」
彼女はカバンを握りしめたまま、僕を見ずに言った。
「固有名詞が必要だと思うわけ。『キミ』を固定するための」
「……ああ」
ついにこの日がやってきた。名前を聞くことはできたけれど、聞かなかった。それがここでの暗黙の了解だったからだ。それを、彼女から踏み越えてきた。
「……常盤です。常盤悠)」
「トキワ……ユウ」
先輩は音の響きを確認するように復唱した。
「……悪くない響き。コード進行で言うと、Cメジャーみたいな安定感がある」
「そうですか。先輩は?」
知っているけれど、聞くのが礼儀だ。彼女は少し躊躇ってから、小さな声で言った。
「……宇部。宇部三咲。三咲は美しいじゃなくて、漢数字の三ね。人生で三回は咲けるようにって意味なんだって」
「既に咲き誇ってますね」
「……ん。一回目」
先輩は照れくさそうにうなずいた。
その時、電車がホームに入ってきた。風が吹き荒れる中、三咲先輩は、電車に乗り込み際に振り返った。
「じゃあね、常盤くん」
初めて呼ばれた自分の名前。心臓が少しだけ跳ねた。
「連休明け、遅刻したら許さないから」
「はい、三咲先輩」
ドアが閉まる。彼女は少し驚いたような顔をして、それから窓ガラス越しに、口元だけで「生意気」と動かした。
電車が走り去る。後に残されたのは、一週間の空白と、名前という確かな繋がり。ゴールデンウィークは怖い。けれど、その先に待っている日常があるなら、なんとかやり過ごせそうな気がした。
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