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世界の果てという言葉が大袈裟なら、世界の余白と言い換えてもいい。草葉駅は、そんな場所だ。
単線の線路は錆びつていて、周囲には田んぼと、申し訳程度に点在する民家しかない。
自動販売機の唸り声と、遠くの国道を走るトラックの走行音が、ここではBGMとして機能している。
時刻は17時5分。
上りの電車が来るまでの、およそ15分間の空白。
僕はその空白を愛していた。何もしなくていい、誰とも話さなくていい、ただそこに座っているだけで許されるモラトリアム。
ただ、今日の「余白」には先客がいた。
ホームのベンチの端。そこに、この世界の彩度を一人で吸い上げたような異物が鎮座している。
名前は知らない。ただ、襟元のリボンの色から、同じ高校の一つ上の先輩であることだけはわかる。
腰まで届くセンター分けの長い黒髪に、陶器のように白い肌。
そのクールな目つきから校内では「氷の歌姫」だの「絶対零度」だのと、中二病じみたあだ名で呼ばれている有名人だ。
彼女は文庫本を読んでいる。その姿は一つの完成された宗教画であり、迂闊に近づけば異端審問にかけられそうなオーラを放っていた。
僕は彼女の視界に入らないよう、ベンチの反対側の端、そこからさらに二メートルほど離れた古びた吸い殻入れの横に立った。関わらないのが吉だ。
彼女は美しい彫像であり、僕は背景の木である。彫像と木は会話をしない。
僕は外界を遮断すべく、イヤホンを耳に押し込んだ。
再生ボタンを押す。
ギターのクリーントーンと、複雑なドラムのリズムが脳内を満たす。
toe。ポストロックの金字塔。歌詞のないインストゥルメンタルが、夕暮れの景色に溶け込んでいく。
僕は目を閉じ、世界と自分の境界線を曖昧にすることに没頭した。
その時、トントンと右肩を叩かれる感触があった。
心臓が肋骨を蹴り上げる。
目を開けると、そこには「絶対零度」の彼女が立っていた。
至近距離。長い睫毛の一本一本まで数えられそうな距離だ。ただし、その瞳は僕を射殺せそうなほど鋭い。
僕は慌ててイヤホンを外した。
「……あの、何か?」
「音、漏れてる」
静寂な無人駅で、僕のイヤホンからの音漏れは騒音公害以外の何物でもない。やってしまった。
「す、すみません! すぐ消しま――」
「なんで止めるの?」
僕が停止ボタンを押そうとした指が、彼女の言葉で止まった。
彼女は眉をひそめている。心外だ、と言わんばかりに。
「え?」
「今、サビ前のブレイクだった。あそこで止めるのは、くしゃみが出る瞬間に鼻をつまむのと同じくらい罪深いことだよ」
彼女の言っている意味を理解するのに、数秒のラグが発生した。
怒っている……わけではない?
「……あの、うるさかったですよね?」
「うるさくはない。ただ、漏洩していただけ」
「それを世間では騒音と呼びます」
「騒音かどうかは、漏れた物の成分による」
彼女は僕の手元にあるスマホを指差した。
「キミが流していたのが、もし流行りのダンスミュージックだったら、私は今頃キミを線路に突き落としていたかもしれない。でも、違った」
突き落とす!?
「はあ」
「toeでしょ?」
世界が止まった。
あるいは、彼女の中の何かが決壊していた。
先輩の無表情な仮面が、ピシピシと音を立ててひび割れていく。深海のようだった瞳に、急激に熱が宿る。
「……わかるんですか?」
「ん。余裕で分かる」
彼女は一歩踏み込んできた。香水の匂いではなく、古い紙のような、清潔で静かな匂いがした。
「キミ、1年生?」
「あ……はい」
「キミの音漏れは、無罪放免とする。何故なら、ポストロックだったから」
「基準が独特ですね……」
「むしろ推奨したい。この田舎の駅は静かすぎるから。虫の声と風の音だけなんて、情緒過多で胃もたれする。そこに良質なポストロックが混ざることで、初めて世界のバランスが保たれる」
彼女は熱っぽく語る。学校で見せるあの人を寄せ付けないオーラはどこへやら、今の彼女はただの早口な音楽オタクだ。
「……でも、こんなマニアックな曲、知ってる人がいるとは思いませんでした」
「それはこっちの台詞。学校でこの話をしても、みんな『何それ、K-POP?』とか『またお経みたいな曲聴いてる』とか言うんだから。あいつらの鼓膜は飾り。フライドチキンの軟骨より役に立たないんだから」
「軟骨は美味しいですけどね」
「じゃ、軟骨の方が役に立つか……」
「やげん軟骨」
「そうそう。方言かと思ったよね。最初聞いた時はさ。『やげん』って。あ、薬をすりつぶす薬研に形が似てるのが由来とかそういうウンチクは要らないよ。言ったらうんち食わすから」
「ウンチクだけに……?」
「とにかく、キミの選曲は正しい」
先輩はハッとした顔で話題を変えた。勢いで素の言葉遣いが出てしまったらしい。
「特にこの夕暮れ時にアコースティックギターの混ざったインストを持ってくるあたり、あざといけど嫌いじゃない」
彼女はふふん、と鼻を鳴らした。
その表情は、学校ですれ違う時の冷徹なものとは別物だった。
子供が秘密基地の入り口を見つけた時のような、無防備で、少し誇らしげな顔。
「……あの、もしかして、先輩もバンドとか好きなんですか?」
「好きというか、栄養素。というかこれを見てわからない?」
彼女は僕の黒いナイロン製のギターケースと自分の茶色いギターケースを見比べながら言った。
サイズ感からして彼女のものはベースだろう。
「栄養素」
「炭水化物、タンパク質、脂質、そして変拍子。これが私の四大栄養素」
「よりによって変拍子……不健康極まりないですね」
僕が淡々と返すと、彼女は唇を尖らせた。
けれど、その目には明らかな親愛の情が浮かんでいる。
「……ね、キミ」
「はい」
「明日も、ここ使う?」
「毎日使ってます。通学路なんで」
「そっか」
彼女は視線を線路の向こう、沈みかけた太陽に向けた。髪を耳にかけながら、ボソリと言う。
「じゃあ、明日もたっぷり漏らしていいからね。私がすくってあげるから」
「言い方どうにかなりませんか!?」
「私のプレイリストと勝負する気概があるなら、聞いてあげなくもない」
その時、カン、カン、カン、と踏切の音が鳴り始めた。
電車が来る合図。やってきたのは下り方面の電車だ。
「どっち方面です?」
「私は下り」
「そうですか」
「や、キミはどっちなのさ」
「上りです」
「……そっか」
つまり、僕たちの15分間の終わりを告げるベルだ。
「……あ」
「なんですか」
「名前。言ってなかったね」
風が吹き、彼女の長い黒髪が舞い上がる。電車がホームに滑り込んでくる轟音の中、彼女は小さく呟いたようだったが、その声はブレーキ音にかき消された。
彼女は「ま、いっか」とでも言うように肩をすくめると、小さく手を振った。
僕はギグバッグを背負い直し、小さく溜め息をつく。
どうやら僕の平穏な「余白」は、ノイズ混じりのセッション会場に変わってしまったらしい。
悪くないノイズだ、と僕は思った。
彼女の名前すら、僕はまだ知らないのに。




