入学式の日、校舎が消失していました
「え。嘘でしょ?」
ハンナは一緒に登校してきた二つ上の兄、ユーリウスと校門の前で立ち尽くしていた。
「ハンナ!どうした?」
次の馬車に乗っていた両親も慌てて駆けつけた。
「お父様、クリューガー貴族高校が」
「ああ……、我々は入学式に間に合えなかったんだろう」
ロルフは苦々しい顔で顎を撫でた。
「え。だって、式は十時からで、集合は九時って招待状に書いてありました」
ハンナは必死にクリューガー貴族高校から来た手紙を父親に見せた。
ハンナとユーリウスの母、バーバラは悲しそうな顔で『選ばれてしまった娘』を見た。
「私たちが通っていた頃からあった噂なの。選ばれたら入学式に間に合えない」
「どういうことですか?お兄様もご存じでしたの?」
「すまん。俺も聞いたことがあるくらいの知識しかない。そもそも式の開始時間は毎年異なるし、毎年王族の方がいらっしゃるわけじゃないから毎回起こるわけじゃない。開始時刻を事前に下調べなどできないように、出発ギリギリになって連絡が来ただろう?」
「ええ。お陰で早朝から支度してずっと待っていましたけど。結局何のためなのですか?」
怪訝な顔でハンナはユーリウスに尋ねた。
「よく言えば、女神の采配、悪く言えば王族の玩具、もしくは嫌がらせ?」
「おもちゃ?いやがらせ?」
「選ばれた人物は生徒会に入って王族の方のお手伝いをさせていただくのだ。私が在学していた頃は、誰よりも近くでお役に立てる名誉職と言われていた」
ロルフは複雑な眼差しでハンナを見た。ロルフの在学中は現国王陛下が在学しており、その時選ばれたのは現王妃。
王族が目を付けた女性と懇意になるための仕掛けなのだろうとロルフは考えていた。でもあの頃、入学式に間に合えなかった現王妃は、確か煌びやかでロマンチックな光景だと言っていたような……実際される側になってみると、衝撃的ではあったがロマンというよりホラーというか何というか、不気味?
「お父様、お母様、私、イヤです!」
「ハンナ、今年はリヒャルト殿下がご入学されるから。王子妃、憧れるだろう?」
困り顔のロルフはハンナの顔を覗き込んだ。とは言え、婚約を打診されたわけでも何でもない。
「ぜんっぜん憧れませんわ。憧れようがありません。リヒャルト殿下とお話したことなど一度もないのですよ?なぜ私が選ばれたのかすら分かりません。それにただ今好感度ダダ下がりで、婚約も婚姻も断固拒否ですわ。だって私は入学式で新入生代表で挨拶をすることになっていましたのよ?それを門前払いだなんて!この高校に通ってくるな、という暗黙の通告に違いありませんわ!あら?これって……」
ハンナは校門に気にかかる場所を見つけた。うっかり触れてしまわないように両腕は身体を抱きしめる。
「お兄様、ここをご覧になって。隙間がありますわ」
「本当だ!よく見つけたねぇ」
呑気な言い方の兄にハンナは腹が立った。
(ああ、お兄様はとっくに気づいていらしたのね。知らぬは私ばかり。バカバカしい!)
「帰ります」
ハンナはこのクリューガー貴族高校には通わなくて良いと考えた。こんな思いをするくらいなら、あちらを選ぶ。
もし、ハンナがその隙間の奥をもっと近づいて覗いていたら、ハンナの発言が聞こえて青い顔をしたリヒャルトと、彼の取り巻きの高位貴族男子たちの慌てふためく様子が見えただろう。
実は、実際の開始時刻よりも早い時刻を知らされていたそれは、リヒャルトからのサプライズであった。王立高校、王子特権で手紙に細工をした。
母から聞いたロマン溢れる演出でハンナを出迎えて、あわよくば自分を気に入ってもらおうと画策していたのだ。
劇場でユーリウスと居たハンナに一目惚れをしたリヒャルトは、ユーリウスからどうにかハンナを奪おうと機会を狙っていた。親に相談するのは恥ずかしくてできなかった。恋バナ好きの母の餌食になりたくなかったのだ。
妹だと分かってからはそれまでの焦りは何処へやら、入学式でのサプライズで両親のように仲睦まじくなりたい、などと考えていた。つまり婚約の打診やその他の交流を軽く考えていたのだ。
門に触れてさえくれれば、リヒャルトたちも門外に出ることができたのに。仕掛けの起動を相手方に委ねたのが敗因か。時間的にも魔力量的にも万が一を準備する余裕はなかった。ハンナは警戒心が強いから門には触れなかったのだが、彼女の性格も行動傾向も調べていなかった。
リヒャルトの誤算はもう一つあった。ハンナの内在魔力が想定以上にあり、リヒャルトが見せたかった光景とは違うものを見せてしまっていたことだ。魔力を多く保有する者は、魔力の残滓に敏感になる。もちろんリヒャルトには知り得ないことだけれども。
表面上美しく見えていても、効率よく使われていないと余分な魔法の軌跡が残り、高魔力保有者には全てが重なって見えてしまうことを知らなかった。だからこそ高魔力保有者は繊細で軌跡にも配慮された魔法に価値を見出す。
今回は実力以上の仕掛けをしようとリヒャルトと、その取り巻きたちが複数人で奮闘した結果、全ての軌跡が残っていた。重なり合い過ぎたそれらはハンナたちにとってはもはや黒い塊。その塊が門と校舎の間にあるせいで校舎が消失したように見えていたのだ。リヒャルトには残念ながら分からない。
「お父様、私決めました。魔塔へ行きます。実は以前から直接お誘いをいただいておりましたの。入塔試験は問題ないだろうと言われています。お父様もお母様も通われたこの高校に通ってみたかったので先送りにしていたのです。いつ来てもかまわないと魔塔への『入塔の文言』もいただいております。それに、家族で来てもらってもかまわないとも言っていただきました」
「ハンナ、このクリューガー貴族高校を卒業しないと貴族として認められないのよ?それは良いの?」
バーバラが心配そうにハンナを見つめた。
「高校卒業資格のことですよね?お母様が通われた時はそうだったかもしれませんが、今の魔塔には併設された魔塔高校があって、ちゃんと単位を取れば卒業資格を貰えるのです。それに魔塔は試験がありますけど、魔塔高校は老若男女全ての方に開かれた高校なので、お父様もお母様も通うことができますよ?」
「そうなの?」
「はい。魔法を扱う方々の人材確保や魔法研究促進が目的なのだそうです。魔塔に入塔できれば住環境改善の一環で、自宅から通うこともできるようになったのですって」
「まあ!寮に入らなくても良いの?」
「いえ。魔塔の寮には入ります。ただ、扉を繋げてもらえるのでいつでも家に帰ることができ、実質家から通っているようなものなのです。領地経営をしながら魔塔で研究もして、卒業資格を取得した方もいらっしゃるのですって」
「まあ!知らなかったわ。お母様も通おうかしら」
「入塔試験があるので、希望が全て叶うわけではないのですが、入塔の文言を受け取った者の親族が挑戦するのは自由です。魔力は遺伝的要素が強いからなのですって。早速ですが、今からお母様もご一緒にいかがですか?」
「いっそ家族四人で行ってみようか。今日は入学式だと思っていたから一日休みを取ってあるんだ」
こんなにワクワクした眼差しのロルフを見るのは久しぶりかもしれない。仕事仕事で死んだ魚のような目をしていることが多い。
ユーリウスも興味があると言うので、馬車を屋敷へ返し、ハンナを中心に四人で輪になって手を繋いだ。
「では行きますよ?『我は魔塔に招かれし魔力を使う者。魔塔を望む者たちを試したまえ。空間を切り開き、魔塔への道を結び、我ら四人を招き入れたまえ』」
ハンナが言い終わると、四人の周囲をつむじ風が包み込み、周囲からは姿が見えなくなった。その光景を隙間から覗いていたリヒャルトは門を開けようとした。しかし開かない。仕掛けが無駄にうまく働いてしまったからだ。
彼らが門に施した魔法を解除するには、外からの接触が条件。魔法コストを低くするために選んだ方法がアダとなり、貴族高校内に閉じ込められてしまった。頼みの綱の他の学生が来るのは一時間後。彼らに今ハンナを止める術はなかった。
ハンナのためにと用意していた物が全て無駄になった。時間通りに上がり始めた花火を観ながら、リヒャルトは呟いた。
「こんなはずじゃなかったのに……」
その頃、四人は魔塔の転移用の部屋に転移していた。
「造りが素敵だわ」
「この後どうしたらいいか、何か聞いてないの?」
内装を気に入って機嫌が良いハンナに、せっかちなユーリウスは不満げな顔をした。
扉をノックする音がした。四人に緊張が走る。
「来てくれてありがとう、ハンナ」
扉を開けて入ってきたのは王弟ながら魔塔の責任者を務めているコンラットだった。ハンナに声をかけたのは彼だ。魔塔は高校も含め、口コミのみで成り立っている。
「コンラット様、ご無沙汰しております」
カーテシーをしたハンナに合わせて三人も礼を執る。
「ここは魔塔だから、貴族のような振る舞いは不要だよ。ご家族で来てくれて嬉しいよ。コンラットだ。どうぞよろしく。ところでハンナ、今日は憧れの貴族高校の入学式だったのではないのか?」
高校の門前で何が起きたのかを聞いたコンラットはため息を吐いた。
「細工をしたのは十中八九甥のリヒャルトだ。兄上は私が手伝ったことを言わなかったのかもしれない。兄上は魔力残滓が見えないから」
「そういうことだったのですね。ロマンチックな魔法だと聞いていたのに、ホラーだったのでおかしいと思っていたのです」
ロルフは合点がいって満足気に頷いた。
コンラットは今頃落ち込んでいるだろうリヒャルトに思いを馳せた。親の見栄で痛い目にあった甥。裏どり不足も彼の無知もあるので結局は自業自得か。
「四人とも入塔試験をご希望とのことで良いですか?」
「はい!よろしくお願いします!」
息のピッタリあった四人。
「可愛らしいね。では、こちらへどうぞ」
可愛らしい?誰がだろう?いくら貴族のように振る舞う必要はないと言ってもらったとしても聞き難い雰囲気。四人とも仲良く『聞かない』を選んだ。
四人は一人ずつ別の部屋に通され、精巧な魔力検出の魔道具と対面した。
入塔に必要な魔力量、魔力を放出する能力が十分あるかどうか、繊細な制御能力の習熟度などをこの機械で調べることができる。ついでに適性魔法も分かるが、これは今後の研究活動に活かすためで入塔に必要な訳ではない。
中でも繊細な制御能力の習熟度が最も重要で、これまでにどれだけ繊細な配慮のもと魔法を行使してきたかが分かってしまう。己のレベルに合った効率的で効果的な方法で訓練を重ねてきたかどうかが、習熟度という数字で可視化される。
四人はあっさりと入塔試験に合格。揃って入塔することができた。魔塔高校にも揃って通い始めた。家族全員が高校生である。入塔から数ヶ月、充実した毎日を送っている。
元々魔法を使うことが大好きな上に、四人とも軌跡が見える為、幼い頃から両親と切磋琢磨していたことが全て良い方に働いた。
ロルフは領地経営をしながら土壌改良の研究に勤しんでいる。領内の農業を活性化したいとやる気に満ちている。
バーバラは社交界や高校の友人から集めた「あったらいいな」を研究して商品化。領内の商会で販売を始め、売れ行きは順調だ。
ユーリウスはクリューガー貴族高校から魔塔高校に転学。単位を換算できたので、予定通りの年数で卒業資格を得られそうだ。
魔塔高校は単位制の学校で、指定された授業で基準以上の成績を得ることによって単位が与えられる。必要な単位が集まると高校卒業資格を含む様々な資格を取得することができる。
魔塔高校は魔塔の者以外にも門戸が開かれているので高校の近所の人も多く通っている。気の合う友人と彼女ができたユーリウスは、滅多に家に帰ってこなくなった。
つまらなそうに貴族高校へ通う皮肉屋だったことが想像できない、笑顔が似合う爽やか好青年になった。恋が彼を変えた、と貴族高校時代の数少ない友人に笑われたらしい。
ハンナはコンラットが付きっきりで指導してくれている。と言うのも、コンラットも入学してハンナとの学生生活を楽しんでいるのだ。
貴族高校を卒業したコンラットは、王弟ということで、友人になりたいと思った者からは遠慮がちに、関わりたくないと思った者には纏わりつかれ、気不味い高校生活だったと哀しげに微笑んだ。
その微笑みに心を撃ち抜かれたハンナは、共に楽しみましょう!と毎日コンラットを引っ張り回しているらしい。歳の差は十歳くらいあるが、気の置けない仲間となった数名と一緒に毎日楽しそうに過ごしている。その『数名』はコンラット直属の暗部の方々。護衛でもある。
貴族高校在学中、実質カゲの支配者だった上に悪魔そのものと形容されたコンラットの擬態ぶりに、当時同級生だった男性は、たまたま魔塔高校の近所で彼を見かけて震え上がった。誰に言っても良いことなど何もない。彼は何も見ていないことにした。
ある日、リヒャルトが魔塔高校にやって来た。魔塔高校内で声をかけまくってどうにかハンナとコンラットと仲間たちが楽しんでいる場を見つけ出した。突然現れたリヒャルト。叔父のコンラットのことを覚えていなかったのか、彼は挨拶をしなかった。
「ハンナ、俺と貴族高校に戻ろう。これは王子の命令でもある」
「どちら様ですか?」
得意げに上から目線で手を差し出したリヒャルトにハンナの冷たい視線が刺さる。
リヒャルトとハンナの間に入ったコンラットに、
「そこのおっさん、どけよ」
と言葉のみならず侮蔑的な眼差しを送った。
「あ?なんて?」
悪魔と評された時代の眼差しがリヒャルトを刺す。ハンナからは死角になっていて見えないように当然計算されている。リヒャルトは怯えて差し出した手を引っ込めた。周囲を見渡すもリヒャルトの護衛の姿はない。自分が入り口に置いてきたことを思い出した。
コンラットが初めてハンナに会ったのはとある公園だった。高魔力の気配を感じて転移した先に精霊がいた。魔塔への勧誘をしようと転移することはよくあるが、こんな衝撃は初めてだった。
子どもたちの前で空中に絵を描いていた。パッと見は微笑ましい光景だが、彼女が生み出している魔法の繊細さに心を奪われた。
残滓がかなり少ない。まだまだ改良の余地はあるが隅々まで気を遣っているのが伝わってくる。美しい線を空中に残すためには、高い集中力と繊細な魔力制御が必要になる。それをあんな笑顔で、予測できない話をしてくる子どもたちの相手をしながら。
王となる者の弟として、恐らく自分よりも頭の中が数段お花畑な兄の横で生活していた頃に、たくさん傷つけられたコンラットの心が癒されていくのを感じた。彼女と人生を共にしたら幸せだろうな。漠然とした願いを胸に抱いた。
『幸せ』という言葉からは縁遠いと思っていた自分が彼女との幸せを願うなんて。自嘲的な笑みを隠して、コンラットはハンナのお絵描きが終わるのを待って声をかけた。
自分が魔塔の人間だと証明できる物は何もない。コンラットはハンナに自分の魔法を見せることにした。普段はこんなに慎重に行動しない。ハンナに気に入られようと行動する自分をあさましく感じる。それでも気に入られたい。
さっきハンナは花をたくさん描いていた。植物が好きなのかな。誰かの好みをこんなに気にするのも初めてのことだった。
氷樹を作って見せた。水魔法を極めた先にある氷魔法。溶けないように枝分かれさせた美しい樹を何本も作り出す。彼女にならこの一見地味な光景が繊細な制御の結果であると伝わるのではないか。
「素晴らしい魔法です。美しくて繊細で。こんなに正確で無駄のない軌跡は初めて見ました」
コンラットの期待通りの言葉。予想以上の笑顔。彼女を魔塔へ誘った。自分用の部屋に人を招く入塔の文言を与えたのは初めてだった。
両親が通った貴族高校への憧れがあると話す彼女に、魔塔高校の利点を説明しご家族も良かったらと添えた。彼女の素質は遺伝にもよるだろうから、家族全員魔塔レベルの可能性が高い。ハンナの貴族高校卒業まで数年は待つつもりでいたコンラットに、今の日々を齎してくれた甥のリヒャルト。若干感謝はしている。
「おっさんだなんて酷いなあ。リヒャルトは叔父さんの顔も忘れてしまったのか?」
席から立ち上がったコンラットは人好きのしそうな笑顔を貼り付けてリヒャルトの頭上から話しかけた。コンラットは細身で背が高い。ハンナに手を差し出して、自身の隣に立たせた。
「父上に迷惑しかかけない放蕩者の王族とはお前のことか!無能な男は黙っていろ!ハンナ、こっちへ来い!そんな男の近くにいるのは危ない!」
リヒャルトは王に相談せずに魔塔高校へ来ていた。王に一言でも伝えていたら……いや、執事には伝えたが、諦めるように諭された。嘘をついてここへ来た時点でもう未来は決まっていたのかもしれない。
貴族高校へ行くと見せかけて、数名の騎士と共に魔塔高校へ来た。騎士が入り口で手続きにもたついている間にリヒャルト一人だけがするりと校内へ入った。早くハンナに会いたかった。先日魔塔高校近くの街で彼女を見て、彼女への想いが再燃していた。
「それはお父上から聞いたのか?」
「そうだ。父上は無能な叔父のことを疎ましく思っている。そんなお前が俺に指図するな!おい!無能!ハンナの手を離せ!」
父であり、兄でもあるクリューガー王国国王、デートリッヒはスイーツを食べていた。大切なおやつの時間。至福のひととき。公務がどんなに大変でも十時と三時のおやつは欠かさなかった。
その時雷鳴が轟き、王宮が揺れた。スイーツから顔を上げると弟のコンラットが女性を伴って現れた。何をしても敵わない弟の登場。招いてもなかなか魔塔から出てこない弟。しかも怒っている!ふと足元を見ると涙目のリヒャルトが床に座っていた。腰が抜けたようだ。雷鳴を間近で聞いたのは初めてだった。
「ご無沙汰しております。兄上。この甥のリヒャルトから兄上のお気持ちを伝え聞き、ご迷惑をおかけしていたことを詫びに、急遽馳せ参じた次第でございます」
慇懃無礼なコンラットを見て、ハッとしたデートリッヒは鋭い眼差しでリヒャルトを見た。何が何だか理解できないリヒャルトは、見たことのない父の険しい眼差しで、何かしてしまったことを悟った。
「まさか……」
コンラットが指をパチンと鳴らすと王宮の快適な温度が失われた。ジワジワと蒸し暑くなってくる。反対の手で指を鳴らした。晴れていた空があっという間に曇天に。高度な魔法が必要な室温や天気の操作……。ハンナの周囲は快適なままだ。
とんでもない実力者を罵ってしまったのかもしれない。だが、それを認めるわけにはいかないリヒャルトは叫んだ。ハンナにかっこいいと思われたかったのかもしれない。
「父上!さっさとこの無能に分からせてやってください!さあ!」
(俺の父上はもっと凄いはず!だって王だから!)
期待に満ちた眼差しを向けられたデートリッヒは驚いたような顔でリヒャルトを見た。
「な、何を言っているんだ?コンラットをそんな風に言った覚えはないが。敬愛する天才魔法使い、魔塔の主人であるコンラットのことをそんな風に言うわけないだろう?」
「え?以前母上にそう仰っていたではありませんか」
「リヒャルト、夫婦の寝室に行く前にはちゃんと執事を通した方がいいぞ」
呆れたような顔でコンラットはリヒャルトに言った。
「義姉上にご自分を卑下して慰めてもらっていたのを息子に知られたのはどんなご気分ですか?兄上」
デートリッヒは真っ赤な顔でハクハクと口だけを動かした。
「まあ、そちらの夫婦のイチャイチャのダシに使ったのは許しましょう。ケジメとして慰謝料はいただきますが。いつもの口座にお気持ちを振り込んでおいてくださいね。兄上?」
デートリッヒにそう伝えたコンラットは指を二回鳴らした。
不快だった室温が快適に戻った。雨も上がり空には晴れ間が見える。コンラットは次にハンナを見た。ハンナの緊張が高まる。
「ハンナ、王子妃に興味はあるか?」
「いいえ、全く。憧れたこともありません」
「こちらのリヒャルトをどう思う?」
「え。顔が良い?」
「他には?」
「コンラットに暴言を吐いた命知らず」
「ははっ。ははははっ。やっぱり面白い。好きだよ、ハンナ」
「私も大好きよ、コンラット」
微笑み合う二人。いつものやり取り。リヒャルトは自分に宛てた言葉ではないと分かってはいても、ハンナの『大好き』に胸が躍った。
「リヒャルト、愚かなお前の罰が決まった。両親のプライベートを覗き見る趣味があったとは知らなかったが、そういうのは今回で止めておけよ?」
コンラットは冷めた声で甥に伝えた。
「勉強の一環です!」
「リヒャルト、お前への罰はこれだ」
コンラットが指をパチンっと鳴らすと目の前からハンナがいなくなった。続いてコンラットも。声だけが聞こえる。
「リヒャルト、お前には魔塔を見ることができぬよう魔法をかけた。同様に魔塔に関わる者の姿も。もしお前が伴侶を得て、俺に挨拶に来た時は魔法を解いてやる。ではな」
言い終わったコンラットはハンナと一緒に転移して消えた。恐怖から解放されて床に座り込んでしまったリヒャルト。やらかしてくれた息子を見つめてデートリッヒは言った。
「リヒャルト、今後後宮を彷徨くのを禁じる。無闇矢鱈に入らぬように」
(そんなことで良いのか)
彼はそう考え頷いた。両親の様々な状況を見聞きするのは将来の役にたつと思っていたが、逆の結果になった。初めて恋をした女性ハンナ。幸せな学生生活を送るはずが、姿を見ることもできない。
何がいけなかったのかはあまり分からなかったリヒャルト。だが、ハンナに会う方法はまだある。伴侶を見つけて叔父上に会いにいけば良い。彼はやる気に燃えていた。
「コンラット、意外と怒ってる?もう甥御さんに会うつもりがないんじゃないの?姿が見えない人に謝罪するなんて無理よ」
ハンナの困り顔を見て、コンラットは優しく微笑んだ。
「そうでもないよ。俺のところまでリヒャルトを案内してくれるような友人だったり、伴侶だったり、側仕えだったりがいればできるよ。まあ、今のままでは無理だけどね」
「まあ、私には関係のない話だからどうなってもかまわないけれど」
「ふふ。そうだね。関係ないね。まあ、俺がいる限り二度と会えないけどね」
「ねえ、コンラット、さっきの魔法の仕組みを教えてほしいの」
「もちろん!それはね……」
コンラットとハンナの楽しそうな声が部屋に響く。久しぶりに人から悪口を言われたが、恋したハンナを見ることもできなくなって気の毒なリヒャルトのことを思うと少し溜飲が下がった。兄の性癖に巻き込まれた気の毒な甥。いやいや、裏取りはしないとね。
今度皆で海と白い教会が有名な隣国に遊びに行こうとコンラットが伝えると、ハンナは幸せそうに笑った。
完