第1章 5-5
しかし、右手はほとんど動きそうになかった。そこで左手でスプーンを握り、口へ運ぶ訓練をしている。八〇年近く右手でしか箸やスプーンを握った事のない人が、急に左手でスプーンをもてるようになるはずもない。
歩く訓練よりよほど苦しそうだ。どんなに苦しくても、食事時間の最初十分は訓練の時間で代わりに食べさせる事も許されない。祖父は口の左側が思うように開かないこともあり、初めのうちはほとんど口に食べ物が入らない時もあった。
最初の十分過ぎて、祖母が食べさせると祖父はホッとしたかのように食べていた。刹那は大丈夫かな…と何度も思ったが、結局は祖父のリハビリを見守る事しかできなかった。
九月に入ると、無事に自動車学校を卒業できたおかげで時間に少し余裕ができた。刹那は住民票を東京に移していたので、東京で運転免許証を申請しないといけなかった。また、後期の履修申請も合わせてしないといけないため、一週間ほど東京へ戻る事になった。
「刹那、申し訳ないんだけど、久々にぬか床を混ぜておいてくれない? 何本かぬか漬けを東京へ持って帰ってもいいから」
「はーい!」
この日は朝から何もなくて、刹那は祖母を見送ると、早速ぬか床を混ぜるために台所の地下倉庫からぬか床を出す。その時だった。倉庫に本らしきものを見つけた。ついでに本らしきものも出す。どうやら、日記帳のようだ。赤い日記帳…ずいぶん古い。
これはもしかして…。パラパラ開くと、前に祖父母からもらったコピーと同じ箇所がある。やはり、間違いない。刹那は急いでぬか床を混ぜて、でき上がっているものを取り出す。また、きゅうりやなす、にんじんなどを新しく何本か入れておいた。
それから念入りに手を洗い、赤い日記帳を持ってコンビニへ行く。日記の全てのページをコピー機で印刷した。それから日記帳を元の地下倉庫へ戻した。まさか、このような形で見つける事になろうとは思いもよらなかった。
それにしても、地下倉庫とは…。完全に盲点だった。忙しさのあまり、祖母はどこに隠していたのかも忘れていたに違いない。東京に帰ってから、母の日記のコピーをじっくり見る事にしよう。