序章1−1
少女は母の体を何度もさすっていた。母は倒れたまま、起きようとしない。秋の夕方、柔らかい西日が部屋に差し込む。少女はあまりにも幼過ぎて、母が眠ったまま、起きる事ができないと思っている。まさか、空腹のあまりに動けないとは思いもしないだろう。
「ママ、お腹が空いたよ。もう、マンマないの?」
この部屋に食べ物はもう一切ない。母は少女のために必死になって仕事を探したが見つける事はできなかった。いつしか、職探しと子育ての両立に心が折れた。こんなことなら、男を信じて駆け落ちなんてしなければ良かった。少女が三歳になってから、男は突然消えた。どうやら、お店のお金をスタッフに持ち逃げされたらしい。それから資金繰りに追われて、ここから逃げたのだ。母親と少女を残して…。それから地獄が始まった。
男が残したお金があるうちはまだマシだった。こんなことにならないように、それは母親なりに必死だった。でも、必死に職探しをしても誰も採用してくれない。百件ほど履歴書を送って、九十件は書類選考で落ちた。残りの十件も面接で落ちた。お祈りメールが来るたびに女は自信を失い、部屋に引きこもってしまった。
「刹那、ごめんね。もう、マンマないの…」
最後に、ごはんを食べたのはいつだったけ? もう、思い出せないや…。ああ、変な意地を張らずに実家へ戻れば良かったな…。母は娘のために残り少ない食料を一口も口にしなかった。残り少なかったが、全てを娘に食べさせた。もう生きていても何も楽しい事はない。女自身がどうなろうと、それは女自身の責任だから仕方ないだろう。しかし、少女には何の罪はない。娘は道連れにできなかった。母は最後の力を振り絞って、起き上がる。
「ママ、どこへ行くの?」
「ママは、もう…どこにも行けないの…。刹那、外に行っておいで…」
「せつな、ママと一緒に行く!」
少女はそう言って、母にしがみつく。餓死寸前の母は娘にしがみつかれて、そのまま倒れそうになった。しかし、今度倒れたら、間違いなく二度と起き上がれない。母は必死に堪えて、やっとの思いで玄関へ向かう。仕方ない…。
「分かった。刹那、ママと一緒に外へ行こうね」
「わ〜い、やった!」
ここで、娘と一緒に心中する訳にはいかない。女は男に捨てられ、世間からも見捨てられた。しかし、それは女の責任でもあった。少なくても、男と一緒に駆け落ちする事を選んだのは女だ。こんな風になる前に役所に行ったのに、プライドが邪魔して生活保護の申請ができなかった。しかし、娘は何も悪くない。だから、恥を忍んで最後に外へ行く。玄関までの道のりがこんなに遠いとは思わなかった。そして、扉がやたらと重い。体に全く力が入らない。
「せつなが開ける!」
少女が何事もないようにドアを開ける。三歳児が難なくできる事を、二八歳の女性ができないとは…。ああ、最後に外に出たのはいつだっけ…。日が傾くにつれて、空がオレンジ色に染まる。アパートの二階から下りるのがつらい…つら過ぎる。それでも、せめて人通りの多い道まで刹那を連れて行かなくては…。女はそう思った。
「ママ、お外楽しいね〜」
少女が無邪気に言うので、母はそれだけで泣きそうになった。一瞬…一瞬の出来事を大切にして、一瞬を積み重ねて成長できるように「刹那」と名付けたのに…。まだ、死について分かっていない少女の横で、母は走馬灯のように少女が生まれてからの三年余りの日々を振り返る。もう…少しでも気を抜けば、いつ倒れてもおかしくなかった。やっとの思いで少女を大通りまで連れて来た時、母は安心したのか、そのまま道端に倒れ込む。