第9話 忘れたくない記憶
カミルの領地アンヌフへ到着し、石造りの堅牢な城へ入る。
ラーニャは道中でカミルの説明を受けながら、書籍で読んだ歴史を思い出していた。隣国との諍いは古くからあり、国境であるここアンヌフは元々我が国の領地であった。それをカミルが取り返したというわけだ。
城を案内するというカミルについて歩いている途中で、ムフレスにはこの地の管理を代行する男爵へ報告を要請するというミッションが課された。二人だけになった状態で、カミルはずんずんと階段をのぼっていく。
「何階まであるんですか、これ」
「地上は五階だね。東西の塔はもっと高い。病弱な仔猫ちゃんにはツライかな、抱っこしてあげようか?」
「いいですね……って冗談ですやめてごめんなさい」
階段の高さに微妙な違いがあって、ずっと目を瞑っていられないことのほうがつらい。そういった意味ではムフレスを追い出してもらったのは助かったと言える。
担ぎ上げようとするカミルを押しとどめて、せっせと階段をのぼっていくと金属の扉にぶつかった。取っ手に手を掛けて、カミルがラーニャを振り返る。
「さぁ、心の準備をするといい」
「何が――」
言い終えるより前に、キィと音を立てて扉が押し開けられる。
最初にラーニャの目に入ったのは紺とオレンジの混じる紫色の空だった。カミルは警備の兵にしばらくその場を離れるよう指示して屋上にふたりだけとなると、ラーニャの瞳を覆う黒のレースを取り去った。
胸壁の凹部分はラーニャの頭がちょうど出るくらいの高さで、彼女は向こう側を見ようと背伸びをするがうまくいかない。
「待ってなにそれ、可愛いなー俺の仔猫ちゃんは!」
カミルが背後からラーニャを抱きかかえる。ラーニャは彼の首に腕をまわしながら屋上からの眺望に歓声を上げた。
「わ……。これは、なんて綺麗なの」
「な、ちょっといいっしょ。西に森が広がって、南は海。東側は戦でちょっと荒れちゃったけど、昔はブドウやオリーブや花が育てられてたらしい」
夕陽はすでに森にかかり、紺色の海には月が形を変えながら浮かんでいる。丘状の土地に並ぶ家々の壁は白く、窓や屋根の一部は華やかな青だ。
カミルは言葉を濁したが、この地が荒れているのは隣国の統治が杜撰だったせいだ。だからこそカミルは土地の人間に歓迎されている。
「きっとすぐ、かつての美しい姿を取り戻すでしょうね」
「ボロボロになってた国境の壁の補修を優先させてるけど、早くそうなるように頑張らないとな」
ラーニャは、いずれはこの土地に引っ込みたいんだと語ったカミルの表情を思い出した。美しい風景に目を細めるカミルを見れば、それが本心であることは疑いようがない。
初めて見る海と、初めて嗅ぐ潮の香り。虹色に輝くグレーの髪が頬をくすぐる感触もカミルの体温も、忘却を知らぬラーニャでさえ「忘れたくない」と思った。
そんなラーニャにとっては幻想的とも思える時間は、勢いに任せて乱暴に開かれた扉の耳障りな音で終わりを告げた。
「殿下ご無事です……か……って何やってんですかアンタたちは」
「えー? それは俺が言いたいんだけど。仔猫ちゃんとの時間を邪魔しないでくれよ」
飛び込んで来たのはムフレスであった。
カミルは腕から下ろしたラーニャの目元に背後からレースをまわして結ぶ。頬にキスでもするかのように顔を近づけて「悪ぃ」と謝罪した。
目が見えるという秘密を守るため、イチャイチャしていたことにするらしい。ラーニャも不本意ながらカミルの腕に自分の腕を絡めて見せた。
「女と見れば見境ないんですからアンタは……」
「えー、見境くらいあるよー?」
「いやそんな話をしてる場合ではないんです。すぐ、すぐ降りてください、魔獣の群れが」
反射的にカミルは胸壁から東側を見たが、既に夜の帳が下りはじめた中で異変を見つけるのは難しい。
ムフレスの言葉は続く。
「いま哨戒班が対応していて増援を向かわせています。追い返すことはできるでしょうが、群れの出現頻度が上がっているため、実際に状況をご覧いただきたいと」
「わかった……と、君は」
動き出そうとしたところで腕にラーニャが絡まっているのを思い出したらしい。カミルは腕からラーニャを剥がしながら、部屋で待つように言う。
「いいえ、私も行きます」
「駄目だ」
「バスリーの知識を活用しないのは愚者です」
「なっ、殿下になにをっ」
カミルは激昂するムフレスを制し、ラーニャの腹の辺りに手を差し入れて小脇に抱え上げた。
「仕方ない仔猫ちゃんだ。ちっと乱暴にするけど文句言うなよ」
「も、文句言うつもりはありませんけど、乙女の持ち方ではないのではありませんかっ?」
「文句言ってんじゃねぇか。まぁちょっと我慢してくれよ」
ラーニャは手足がぶらんとした状態で運ばれることとなった。高速で流れる城内の景色を見ていたら間違いなく脳が熱暴走してしまうため、諦めて目を閉じる。
城を出たところでカミルが叫んだ。
「ラーニャ、馬は?」
「乗れ……ると思いますっ?」
「そりゃそっか」
くくっと笑って、カミルは用意されていた馬の背にラーニャを乗せた。その後ろにひらりと飛び乗って馬を走らせる。ムフレスも後ろからついて来ているようだ。
たてがみをギュッと握って背をカミルに預けると、耳元で「やっぱり」と囁かれた。
「馬乗れるだろ、落ち着きすぎ」
「目が見えたら乗れるでしょうね」
こういうところでボロが出るのかと反省したが、それと同時に秘密を共有する存在がいることの心地よさと心強さとを実感する。
「まだ戦ってるな」
カミルの言葉でラーニャは目を凝らして前方を見た。