第62話 記憶と思い出
ウィサムとの歓談からひと月近くが経過して、ラーニャとカミルはアンヌフを訪れていた。収穫の時期が近いからだ。アンヌフ城の屋上から見る景色は以前とまるで違う顔をしている。
「もうすっかり秋ですね」
胸壁から向こう側を覗くには少々背丈の足りないラーニャは、相変わらずカミルに抱き上げられていた。荷物を小脇に抱えるようなそれと比べ、背中と足を支える横抱きのスタイルは人間として尊重されている気がするものの、相手の顔が近くて少々恥ずかしい。
「ラーニャが俺のとこに来てどれくらい経った?」
「百二十五日ですね」
「さすが即答。まだそんなもんか、もっとすげー長く一緒にいるような気がするのに。でも初めて会った日のことはよく覚えてるよ。まじで可愛くて――」
「ずっと気になってることがあるんですけど」
「どうぞ」
カミルがラーニャの額にキスをする。軽く睨んで抗議するが効果はない。
「初めてお伺いした日、殿下が北宮の庭を案内してくださいましたが、足元に石が落ちていたと言って私の手を強く引いたことがありましたよね? 石なんてなかったのに」
「あー、あれねー。反応を見てたんだよ。筋肉のつき方や反射神経とか。戦闘の心得があれば隠しても多少は滲みでるからさ」
「用心深いにもほどがあります。まぁそれでお疑いが晴れたならいいですけど」
くくっと笑ったカミルがラーニャを抱いたままくるりと回った。ラーニャは慌ててカミルの首にしがみつく。
「わっちょっと!」
「軽すぎ、筋肉なさすぎ。俺もあんとき用心し過ぎだなって、笑うの我慢すんの大変だったわ」
「もー、降ろしてください」
ラーニャが身じろぎすると、カミルは彼女を抱く手に一層力をこめた。
「結婚して」
「へ」
「ここで君と生きていきたいんだ」
少しオレンジがさしてきた空を白い鳥が舞っている。ぐるり見渡せば眼下に並ぶ白い家々、森の緑、そして紺碧の海。どれをとっても美しいこの土地でカミルと共に暮らせるなら、どんなに幸せだろうか。
「ヨーネス殿下、クテブ殿下もお亡くなりになって、カミル殿下のお立場はより重要なものとなっています。もっとふさわしい女性が他にいるはずです」
王家を出て臣籍に降りることとなっていたヨーネスとクテブは、貴人用の牢を出たところで行方知れずとなった。翌日、王家の森の西の奥で変わり果てた姿で見つかったが、犯人は見つかっていない。奇しくもそれはダウワースが背に矢を受ける事故の起こった場所であったという。
降りようともがけばもがくほどカミルの腕の力は強くなっていく。
「例えば?」
「各王子殿下の侍女たちはどなたも素晴らしいお家柄ですし」
「ラーニャもね。ていうか、俺と同じ気持ちでいてくれてると思ってたけど」
「私は……普通より早く死にます。殿下をずっとお支えすることはできません」
ぷいと顔をそむけたラーニャのこめかみにカミルが再びキスを落とした。
「そしたら俺が君の思い出と一緒に生きていくから」
「それは歩みを止めることになりませんか」
「ならない。残念なことに俺の記憶はラーニャと違って曖昧だしすぐ薄れていくよね。でも思い出は……例えば俺の武運を祈ってくれたり、初めてのダンスに慌てたりした一瞬一瞬は今もこれから先も鮮明に思い浮かべることができる。その思い出が俺を元気づけてくれるんだ」
カミルがゆっくりとラーニャを降ろした。
言葉を探すラーニャの手をとって、カミルは彼女の薬指に指輪を滑らせた。長円型のアクアマリンを小さな真珠が囲む美しい指輪だ。
左手を目の高さに持ち上げて角度を変えながら指輪を見つめる。
「綺麗……」
「俺が死ぬまで幸せでいられるように、もっとたくさんラーニャと思い出を作らせてほしい。その代わり、君のことはずっと幸せにし続けるから」
アクアマリンと同じ色の瞳が真っ直ぐにラーニャを見ていた。左手をおろし、小さく深呼吸をしたラーニャがカミルを見返す。
「殿下」
「カミルと」
「カミル様。ザイン陛下の侍女、口説くだけ口説いて情報を抜いてたそうですね」
「今その話っ?」
「や、そこは一言突っ込んでおきたかったんですよね」
忘れることのできないラーニャは、感情の整理をうまくやらねばわだかまりが残ってしまう。北宮へ女性が簡単に出入りできた事実は飲み込めないままだったのだ。
「あれはザインもわかってて口説かせてたんだよ、ヨーネスの手駒だったりするから」
「でも相手の女性は本気になってたとか」
「俺がイケメンだから……ってごめん、ほんともう、そういうことしないんで!」
カミルが胸の前で両手を合わせ、祈るようなポーズをとる。眉を下げて許しを請うような表情がなんとも可愛らしくて、ラーニャは吹き出して笑った。
「ふふっ。すみません、意地悪を言い過ぎました。でも」
「でも?」
「バスリーを誤魔化せると思ったら間違いですからね」
「それはもう、重々承知してるとも」
ラーニャの背にカミルの腕がまわる。抱きしめられて、ラーニャは身を任せた。
「心臓の音が」
「すごいっしょ。こう見えて緊張してるから。で、結婚してくれるよね」
「ふふ。はい、カミル様と共に生きていきます」
「やった!」
カミルは再びラーニャを抱き上げ、踊るようにステップを踏む。
「ウィサムと一緒に領地へ戻るって言われたらどうしようかと」
「お父様もお母様と思い出をたくさん作るでしょうから、お邪魔できません」
「それはそうだ。じゃ、俺たちも早速思い出作りをしよっか」
「ワイン! ワインが飲みたいです!」
「飲んだくれの発想やめろ」
途切れた会話。見つめ合ったふたりは顔を近づけて唇を重ねた。
「ラーニャ、愛してる」
「私もです。カミル様」
アンヌフの民の笑い声が風に乗ってラーニャの耳に届く。潮の香りと温かなカミルの温もり。こうして忘れたくない記憶を積み重ねていこう、そう思った。
これにていったん完結です
そのうち後日談なりアンヌフ公爵夫人編なり書くこともあるかもしれません。
その際にはどうぞよろしくお願いします。
また、他にも連載中の作品がありますのでご興味をお持ちいただけましたらそちらもよろしくお願いします!
それでは! ここまでお読みいただきありがとうございました!
よかったよーと思ってもらえましたら評価やら感想やらいただけますと幸です。幸!




