第56話 そして戦いがはじまる
カミルのいなくなった室内で、残されたラーニャとムフレスは気持ちを切り替えるかのように息を吐いた。
ムフレスはラーニャの描いた魔紋を指す。
「これは一体、どういう?」
「術者の思念を読み取って、念じたものを一定の範囲内から見つけ出すという術式です。さらに術者の気配を極限まで消してしまう術も組み合わせました」
「そんな魔術、聞いたこともない」
「はい。どちらも禁呪指定されてからかなりの時間が経ち、口伝さえ途切れていますから」
前者は単純に使い勝手が悪いからというのが表向きの理由であった。失せ物を探そうにも、多くの場合あまりにも多くの類似品が浮かび上がってしまう。後者も表向きは危険だから、または犯罪に使用されるからという理由で禁止された。
だがどちらも真の理由は為政者が恐れたためだ。隠れることもできぬまま、暗殺者がすぐそばまでやって来るのに気づけないのだから。
言葉を失いハクハクと口を動かすだけのムフレスに、ラーニャは再び黒のレースで目を覆いながら続けた。
「魔力効率に意識の向かない時代の術式ですから結構持っていかれますが、ムフレスなら大丈夫ですよね?」
「……ったりまえです! ってか、ラーニャ嬢アンタの目は」
言いかけたムフレスの言葉を、ラーニャは魔紋を差し出して止める。ムフレスは「ああ」と呟いて魔紋に手をかざし、魔力を通した。
彼の黄色の魔力が精緻な魔紋を通り抜け、花畑が完成したかのようだ。隅々まで黄色が行きわたると同時に弾けるように魔力が広がって消える。ムフレスは目を丸くしてどこか遠くの一点を見つめていた。
「光が見えますか? その光指す方向にルトフィーユ殿下がいらっしゃるはずです」
「なるほど……自分にしか見えてないのか。演武場の方向を指しているようですね。よし、行きましょう」
頷き合ったふたりは部屋を飛び出した。
ラーニャはムフレスの表情が今までに見たことがないほど険しくなっていることに気付いたが、それもそうかと一人納得して走る。ヨーネスのしたことは人道に反していて、決して許せるものではないのだから。きっと自分自身も同じ顔をしているのだろう。
無言のまま北宮を出たところで、ラーニャの名を呼ぶ声があった。
「ラーニャ様! ああ、すれ違いにならなくてよかった」
それはカミルの部下であり普段からラーニャの傍にいることの多い護衛フェルハートだ。二人の元へ駆け寄り、慣れた手つきでラーニャの手に触れる。ラーニャが弱視だと信じている彼はこうして自分の位置を知らせたり、ときには手を引いて目的地へ連れて行くのだ。
「先ほど殿下よりラーニャ様の指示に従うようにとの命を受けて参りました。裁判の観戦……ではなさそう、ですかね?」
「その前にやることがあるの。ついて来てくれたら助かるわ」
「もちろんです、それがオレの仕事ですから」
どんと胸を叩くフェルハートにムフレスが声を掛ける。
「急いでるからもう行きますよ」
「えっ? ……あっ、ムフレスさんいたんですか?」
「は? 最初からずっといましたけど?」
何を言ってるんだと眉を顰めるムフレスの耳元で、思い出したようにラーニャが囁いた。
「そうそう。気配を極限まで消す術式のせいですね。相手が油断してる場合、こんな風に目の前にいても気づかれないことがあります。でも、敵は当然警戒しているでしょうから過信は禁物ですよ」
「なるほど」
「と言ってもさすがにこれは気づかな過ぎですけどね……」
ラーニャが苦笑すると、ムフレスはムスっとして大きく溜め息をつく。
「あとで殿下に、ラーニャ嬢しか目に入ってなかったって報告しておきます」
「えっ。ちょっとやめてくださいよ、オレまだ死にたくないし」
「慢心してるのが悪いんです。さ、早く来てください」
あらためて目的地へつま先を向けたムフレスの後ろを、ラーニャとフェルハートがついて行く。途中でフェルハートが速度を緩めろとムフレスに指摘したものの、ラーニャはそれを不要な気遣いだと言って断った。
目的地は演武場そのものではないらしく、ムフレスは時に立ち止まったり虚空を見つめたりしながら「どっちだ」と呟く。
そんな中、風に乗って演武場からのざわめきが聞こえて来た。
フェルハートが言うには多くの貴族が観覧しているらしい。事情を知る者たちは歴史に葬られたはずの決闘裁判の復活に、心を躍らせているのかもしれない。
そのざわめきの中に司会と思しき人物のアナウンスが聞こえ、三人は決闘裁判が始まろうとしていることを知った。この裁判が何を目的としたものであるか、対戦する二人が何者でどのような立場にあるのか、といった紹介する声が聞こえて来たのだ。
あわよくば始まる前に全てを終わらせて、素直に「勝って来い」と言いたかったのだが。さすがにそれは楽観的過ぎたかと、ラーニャはぎゅっと下唇を噛んだ。
三人は演武場の正面を通り過ぎて裏側へと向かい、小さな建物が見えて来たところで足を止める。
「あれですね」
「第二倉庫がどうかしましたか。あそこは馬具とか修理待ちの防具とか、そういうのが突っ込んであるんじゃなかったですっけ」
「つまり人が寄り付かない場所ってことね」
フェルハートだけが意味もわからぬまま二人の顔と倉庫を見比べた。その物問いたげな視線に、ムフレスがもさもさした頭をかきあげる。
「ルトフィーユ殿下が拉致されたんです。恐らく、あの中にいらっしゃる」
「えっ。……ええっ? いやいや、えっ? てかなんで場所わかってんすか。わかってんならもっと応援呼びましょうよ」
「説明する時間も、人を集める時間もないんですよ。ワタシたちでどうにかします」
「最初は私が。敵の意識を引き付けておきますから、ムフレスはその後で密かに侵入してください」
ラーニャの言葉に絶対ダメですと慌てふためくフェルハートを制し、ムフレスは強く頷く。演武場からは「はじめ!」という声が響いていた。




