第55話 もうひとつの試練
雷属性の魔術を軽減する魔紋を仕込み終えたカミルは、扉のほうをちらりと見て首を傾げた。
「ルティも決闘の前に顔を出してくれるって言ってたのにな。そろそろ時間だ」
「ほんとにブラコンなんすから」
「ルティはかわいいんだから仕方ないっしょ」
ラーニャはムフレスの淹れた紅茶に手を伸ばしながら、そういえば以前もルトフィーユが約束の時間に来なかったことがあったな、と思い出す。が、すぐにそれがダウワースの死に繋がったことにまで思い至って手を止めた。
「ルトフィーユ殿下、またヨーネス殿下に騙されてお出掛けなさったりしてないですよね……?」
「まさか! その件については本人もすげー反省してたし」
それはあり得ないと否定するカミルに、ムフレスも頷いて見せる。
「忘れてるだけでしょう」
「いや忘れるとかないっしょ。ナイナイ」
「忘れられちゃったお兄ちゃんかわいそう」
「違ぇって。単純に寝坊してるだけだと思うけど、まぁ部屋行ってみっか」
立ち上がったカミルに続き、ラーニャとムフレスも席を立つ。
ルトフィーユの部屋に人の気配はなかった。
三人はそれぞれに顔を見合わせて部屋へと入る。
「いないのか……?」
「何か油っぽい香りがいつもより強いように思います」
ツンとする香りはもちろん画材によるものだ。リーン妃から換気をするよう強く言われているらしく、いつもはもっと穏やかなのだが。
ラーニャやカミルよりも先に部屋の奥へ進んだムフレスが、大きな声でふたりを呼んだ。
「殿下、ラーニャ嬢、こちらへ。イーゼルが倒れてます。絵の具もぐちゃぐちゃだ」
「は?」
「なるほど、それで香りがこんなに」
ルトフィーユが絵を描くための道具を杜撰に扱うことはないということを、三人は理解している。重苦しい空気の中、全員が室内を注意深く見回した。
室内を改めて見れば、倒れたイーゼルのほかにも僅かに雑然とした雰囲気がある。斜めにずれたテーブル、端がめくれ上がったカーペット、部屋の隅に落ちた筆。
ラーニャは自分の過ごす場所はキッチリとしていないと嫌なんだと笑うルトフィーユの姿を思い出していた。
と、突然カミルが大股に書き物机のほうへと向かう。机上には紙が一枚置かれている。それを手に取ったカミルが机を強く蹴り飛ばした。
「ルティが攫われた!」
ムフレスがカミルの手の中の紙を抜き取り、読み上げる。
「今回の決闘、ルティはワタシと一緒に観戦することになった。末の兄弟で仲良く兄上の雄姿を見守るつもりだ。ふたりだけだと寂しいから友人も何人か呼んでるんだけど、友人たちはどちらが正義であるか賭けるつもりらしい。賭けに負けた奴が激昂しないかだけ、ちょっと不安だけどね。では、健闘を祈ってる。ヨーネス」
「カミル殿下が勝利すれば、ルトフィーユ殿下に危害を加えるという脅しですね」
「ああくそっ!」
カミルががしがしと頭をかき乱す。もう一方の手は怒りか恐怖か小さく震えていた。ラーニャはその手を握ってどうするべきか思案する。
考えろ、考えろ、考えろ。バスリーは主を支えるためにある。膨大な記憶の中から常に最適最善な選択肢を提示し続けなければならない。
なにしろこの裁判に負けるわけにはいかないのだ。
負ければ全てを失うことになる。バスリー家の威信、信頼、立場。父ウィサムの命。そして何より、カミルの命。決闘裁判は神が正義を決める戦いであり、降参は認められないのだから。
カミルを失う?
ほんの一瞬でも頭をよぎったその可能性に、ラーニャは全身の血が引いていくような錯覚に陥った。そんなことは許されない。カミル・ハーレス・アルドウサルという男は南の地アンヌフに、この国に、またラーニャ自身にとって、なくてはならない存在なのだ。彼のいない世界など、もう思い描くことはできない。
ラーニャはひとつ深呼吸をして、瞳を覆う黒のレースをはぎ取った。星の煌めく夜空のような瑠璃の瞳が鋭く細められる。
「ムフレスはどれくらいの魔力をお持ちですか」
「た、たくさんですよ! 魔導士舐めんな」
頷いて手近な紙を一枚引き寄せ、ペンを持つ。
「殿下は予定通り演武場へ向かってください」
「考えが……あるんだな?」
そう話す間にも、彼女の手によって紙の上に魔紋が生み出されていった。びっしりと細かなその紋にはまるで一面の花畑のような圧倒される美しさがある。
「なん、だそれは」
気持ちを落ち着かせるように深い呼吸を繰り返すカミルの横で、ムフレスは早々に術式の解読を諦め、芸術的な魔紋が描かれていくのを見守った。
「ルトフィーユ殿下は必ず救い出します。だから負けないで」
最後の一文字を書き終えて顔を上げたラーニャに、カミルがわざとらしく肩を落として見せる。
「絶対に勝ってねって言われながら送り出されたかったのにな、ヨーネスの野郎……」
「最終的には絶対に勝ってもらいます。私たちがルトフィーユ殿下をお救いしたあとで」
「じゃ、好きって言ってくれたら頑張れる」
カミルが不敵に笑ったのを、ムフレスは全身で驚き否定した。
「は? いやそういう場合じゃねぇでしょうよ、なに冗談言ってんですか!」
「そういう場面なんだよ、わかってねぇな。……ね、仔猫ちゃん?」
「終わったらお伝えしますから」
「ん、俄然やる気出た」
「え、なになに? なんでこの人たちちょっといい感じの空気なの?」
状況の理解が追い付かないムフレスには目もくれず、カミルはリラックスするようにぐるりと首を回す。
「じゃ、行くわ。ふたりともよろしく頼むね」
「はい!」
大きな声で返事をするムフレス。ふたりに背を向け大股で歩き出すカミル。
カミルが扉に手をかけたところでラーニャが彼を呼び止め、走り寄った。
「殿下!」
「なん――っ?」
ラーニャは跳ねるようにして振り返ったカミルの首に腕を巻き付け、唇を重ねる。
「ご武運を」




