第54話 事前準備
ラーニャたちが一晩の逃亡から城へ戻って、十日ほどが経過した。
決闘裁判は普通、申請から開催までひと月以上を要するというのが過去の例から明らかである。娯楽の少なかった昔の人間にとっては一種の息抜きであり、より多くの民が観覧できるよう準備を整える必要があったためだ。
だが今回は国王のたっての希望もあり、即座に開催することが優先された。そして今日が決闘裁判当日である。
ラーニャは決闘における細かな規定が記載された紙を片手に満足げに頷いた。彼女の目の前には白いシャツとグレーのトラウザーズという上下のカミルが立っている。
「うん、元がいいとラフな衣装でも素敵ですね」
「俺がかっこいいってやっと認めてくれたんだ?」
「お顔が素晴らしく整っていらっしゃることは一度として否定したことありませんよ?」
「アッハイ。ところでコレ防御性能まったくないけど、いいのか?」
首を傾げたカミルに首肯する。
「我が国の決闘裁判は元来、神は正義を助け給うという考え方から始まっています。体ひとつと武器ひとつで正義を賭けて戦うもの、ということですね。ですからこちらの規定にもそのように書かれています」
手にした紙をひらひらと振って見せたラーニャに、いまひとつ納得がいかないという顔でカミルが頷いた。その胸をラーニャがそっと撫でるように触れる。シャツ越しにもよく鍛えられているのがわかる、温かくて厚い胸だ。
「でも、お怪我には十分ご注意くださいね」
「心配してくれんだ? 嬉しーなー」
カミルがラーニャを抱きしめようと両手を彼女の背中に回すが、ラーニャは猫のようにその腕の中から抜け出た。
「冗談を言ってる場合では。さて、決闘相手の情報がそろそろ出る頃だと思うのですが……」
ラーニャが部屋の扉を振り返ったとき、まるで見ていたかのように扉がノックされた。そして息を切らしたムフレスが入って来る。
「お待たせしました。今回の決闘裁判についての公示を確認してまいりました。ヨーネス殿下の代理闘士は王国騎士団所属ドライド・スルジ。場所は騎士団の演武場で――」
「ドライド? 聞いたこともない奴だ」
カミルの言葉に、ラーニャが黒のレースで目を覆いながら口を開いた。
「……ひと月ほど前に入団した人物です。ヨーネス殿下が後援する剣闘士ギルド、有り体に言えば傭兵ギルドですね。そちらの出身とのこと。入団してすぐに小隊長に怪我を負わせる事件をおこしたものの不問となっています」
「まさか騎士団員全員覚えてんの?」
「代理闘士をたてることは容易に想像できますので、ヨーネス殿下の手が届きそうな範囲に限定していますが一通り覚えてきました」
「うへぇ」
「うわぁ」
肯定するラーニャにカミルとムフレスが驚きと呆れの入り混じった声をあげる。ラーニャは頬を膨らませた。
「カミル殿下のために資料漁ったのに、その反応はちょっと薄情じゃありません?」
「いやっ。そうだな、ありがとう、すげー助かる!」
「そ、そうですね! 傭兵出身というのは大きな情報です。普通の騎士とは違う剣筋、立ち回りをしますから」
ラーニャは慌てて取り繕うふたりに満足げに頷いて話を続ける。
「揉み消された事件についても調べてみたのですが、小隊長の負った傷は魔術由来のものでした。恐らく雷属性の。ですからドライドは――」
「稀にだが騎士団員の中にも魔術を使える者はいる。たいした問題じゃないさ」
「いえ。危惧しているのは、魔導士レベルの魔力を持つ可能性です。わざわざヨーネス殿下が連れて来たというのが引っ掛かるのです。相手が魔導士であっても規定に違反するわけではありませんが、騎士だと油断させたうえで特大の魔術を放ってくるかも」
カミルがそうであるように、魔力を持ちながら騎士の道を志す者はいる。とはいえそれは魔導士となるには魔力や才能が足りない場合がほとんどだ。だから貴重な魔力の使い道として防御系や治癒系の魔術を選択するのが普通である。
だが周囲を欺くために魔導士が剣を持っていたら?
ラーニャの言葉の意味を理解したカミルが面倒臭そうに溜め息をつく。ただでさえ魔導士と騎士の相性は悪いというのに、騎士団に入団できる程度の剣術の腕があるのでは、いかにカミルといえど気が抜けない。
腕を組んで思案に暮れていたムフレスが「そういうことなら」と呟いた。
「事前に反射系の魔術を殿下にかけておくのは?」
「それは規定に反します。ですので入場前に解呪が施され、他者による強化術式はすべて解かれることになっています」
「うーん、それじゃダメかぁ」
再びムフレスが頭を抱える。
「あれ、でも持ち込める武器はひとつなんだろ? 魔導士が決闘するときはどうするのよ」
「魔導書や、ムフレスの持つカードホルダーなどが武器としてみなされます」
「んじゃ、剣を持って来るんなら魔法なんて使えなくね?」
「魔導士なら主要な魔紋は身体に刻んであるので……。あ、そうか、わかりました。殿下、シャツを脱いでください。そこに魔紋を描きましょう。そうすれば中に入ってから殿下も使えますから」
「とはいっても、殿下の魔力じゃ反射術式は使えないんで」
ムフレスが残念そうに肩を落とすが、ラーニャは笑みを浮かべてそれを否定した。
「反射ではなく軽減にしましょう。それから対象の属性を雷に絞る。そうすることで発動時の魔力消費を抑えられるはずです。あとは殿下の魔力量に応じて軽減の割合を変えればいいはず」
「その条件ならほとんどの魔術をかすり傷くらいにできるな……軽減しても危険なほど大きな魔術なら発動まで時間がかかるから、逆に対処しやすいし……。なるほど、つまりこの魔紋をベースにここの術式を……」
ラーニャの手から規定の記載された紙をひったくったムフレスは、紙の裏に魔紋を描き変更すべき部分を確認し始めた。
刹那のうちに作業に没頭してしまったムフレスの耳には、もう誰の声も届かない。
「良き右腕ですわね」
「右腕なぁ。ムフレスは預かってるだけだったはずなんだが」
「預かってる?」
カミルがラーニャの問いに答えるより早く、ムフレスが「できたー」と小さく拳をあげた。




