第53話 父の願い
室内には匂いが満ちていた。
数多の戦場を駆け、敵味方関係なく多くの命が尽きるのを見て来たカミルにとって、悲しいかなそれは身近な匂いだ。
カミルはベッドの脇で跪く。
「カミル、仰せにより罷り越しました」
医師や従者の手を借りながら、ベッドで男が身を起こす。老人と言うには少し早い年齢だが、病のせいか小さく萎んだ姿がカミルの目には老人に映った。こんなにも小さな人だっただろうか、と憐憫と不安とが綯い交ぜになった曖昧な感情がよぎる。
男――カミルの父であり国王であるディルガムは、ゆらりと手を振って椅子に座るよう促した。
「決闘裁判をするそうだな」
「はい」
「勝て」
よもや決闘相手にヨーネス本人が出て来ることはなかろうが、ディルガムの言葉はそこに頓着していないように感じられた。
相手がたとえヨーネスであろうとも勝て。つまり父としてではなく国王としての選択であり命令である。なんとしてもバスリーを生かせということ。
「御意」
ディルガムは細く長く息を吸った。身体に酸素を取り込むという生きるために必要な最低限のことさえ、眉根を寄せて苦しげな表情を見せる。そして胸に手を当て、身体と会話をするように何度かに分けて息を吐いた。
「ヨーネス、あれは駄目だ。あれはクテブとふたりで一人前だが、クテブが下なのがよくない。ヨーネスを制御しきらんのだ。だからスハイブもダウワースも死んだ」
「兄たちの死がヨーネスの描いたものだとご存知でしたか」
溜め息をつこうとしたディルガムが咽る。従者が慌てて背をさすり、水を差し出した。ディルガムはそれを拒否し、ゆっくりと深呼吸をする。
「あれのことはザインに任す。カミルよ、お前にはふたつ頼みがある」
「なんなりと」
「ザインを支えよ。あやつはああ見えて情に篤く良い方向へ国を動かすだろう。だがひとりではいずれ躓くはずだ」
少し前のカミルであればこの言葉を素直に信じることは難しかったであろう。笑顔の裏に何を隠しているかわからない男というのが、カミルにとってのザイン評である。本音を言えば今もその評価が完全に覆ったというわけではない。
しかしラーニャを通して接する彼は確かに、情け深いように思えた。だからこそ、彼を信じて決闘裁判の手筈を整えてもらったのだ。
「承知しました」
「もうひとつは……」
言葉を切ったディルガムが水を口に含んだ。飲んだというよりは唇を湿らせたと言ったほうが近い。
カミルが何か言うより前に、王が再び口を開いた。
「お前は兄弟たちのように特別秀でたものを持たないが、代わりに全てを高水準でこなす非凡だ。誇りなさい」
「ありがとうございます」
「だが、たったひとつ足りないものがある。だからバスリーの娘をお前に――」
「ラーニャを?」
そこでディルガムは咳をして、浅い呼吸を繰り返しながら喉と肺が落ち着くのを待つ。
一方で主治医はディルガムの脈を取りながら面会の終了を進言した。
「カミルよ。もうひとつの父の頼み、願いだ。妻子を愛し、民に愛されながら天寿を全うせよ」
「それは」
再び酷く咽たディルガムに、周囲の者たちは強制的に面会を終了。カミルは部屋を追い出されることとなった。
自分に足りないものがなんなのか、ラーニャは何を目的としてここへ連れて来られたのか、どちらもわからず仕舞いとなってしまった。その解をいずれ父の口から聞くことができるのかさえわからない。
部屋を出ると真っ直ぐに背を伸ばして立つラーニャが待っていた。当面は――少なくとも裁判の決着がつくまでは、彼女を手の届く範囲の中に置いておきたいと考えカミルが連れて来ていたのだ。
「お待たせ、ラーニャ」
カミルが声を掛けると、どこか宙を見つめていたラーニャが彼を振り仰いでふわりと微笑む。王の居室の警備の任に就いていた近衛が呆けたように彼女を見た。
窓から差す日が彼女のブロンドを輝かせる。シャープな顎のラインと花のような唇、そして細い鼻筋。黒のレースに覆われた瞳がどんな色をしているのか、レースをとった彼女がいかに美しいか、男たちがそればかり妄想するのをカミルは身をもってよく知っている。
近衛たちから彼女を隠すような位置について手をとった。そのまま自身の右腕へと彼女の左手を導く。
「思ったよりお早いお戻りでした。陛下のご体調はまだ優れないようでしたか?」
「お会いするのも久しぶりだからさ、事件前の状態まで回復してるのかどうかわからないんだよね」
「なるほど……」
カミルは北宮へと戻る道すがら、ぽつりぽつりと詳細を語り始めた。決闘のこと、ザインのこと、そして父の願いを。話し終えたところで、ラーニャは小さく息をついた。
「陛下はザイン殿下が王位につくとお考えなのですね」
「ん? ああ、そうだね。ヨーネスやクテブにその器はないような口振りだった」
「それもあるかもしれませんが、恐らく陛下はヨーネス殿下が継承権一位となるための策を講じる前に……」
ラーニャはそこで口を噤んだ。カミルもまた、ハッとして小さく「あぁ」と呟く。
ヨーネスにはもうザインを追い落とす時間がない、つまり王は自らの死期が間近に迫っていることを理解しているのだ。
「そういや、父上はずいぶん小さくなってたな」
思い出したようにこぼしたカミルに、ラーニャは寂しげな笑みを浮かべる。
「人は父親を老いたと感じたときにやっと一人前になるのだと言います。でも本当は、一人前になったからこそ親を小さく感じるのかもしれませんね」
「一人前……か」
ラーニャから「お前はもう一人前だ」と言われたような気がして、頭をぽりぽりと掻いた。
足りないものがあると指摘された以上、まだ一人前とは言えないであろう。だが何が足りないのか、なぜラーニャが自分の元へ送られたのか、それは自身の手で答えをみつけなければならないのだ。
カミルは足を止め、怪訝な顔で見上げたラーニャの額にキスをした。




