第51話 カミルの計画
暖かなまどろみの中、少しずつ足音が近づいてくる。座りっぱなしだったため尻に痛みはあるものの、それよりも腰のあたりに固いものがあたるような違和感。
ラーニャは少しずつ意識がはっきりしてくると同時に、その違和感が以前にもどこかで触れたことがあるなと思い出す。だが記憶を探る間もなく、扉を叩く音がした。
「おはようございます、お嬢様!」
返事よりも先に飛び込んできたのはイルファンだ。
目が覚めて、腰の異物に伸ばそうとした手をカミルが掴む。
「返事も待たないのか、バスリーの侍従は。しかもまだ早くねぇか? ったく、いま何時だよ」
「侯爵様が『姪の無事を確認せよ』と」
「……なんの危険を想定してたかは聞かないことにする」
ふたりで使っていた毛布でラーニャだけをくるみ、カミルが立ち上がる。ラーニャの視線が一瞬だけカミルの下腹部に向かい、イルファンが「え」と言葉を失った。
「え、じゃねぇ。なんもねぇよ。こっち見んな」
「おはよう、イルファン。夜は寝てしまったの。これからどうするかを殿下と話し終えるまで、もう少しこの屋敷にいたいのだけど、いいかしら」
ラーニャも立ち上がり、毛布をイルファンに差し出しながら窺うように首を傾げる。
「お着替えや食事なども必要でしょうから先ずは侯爵邸へ。今でしたら警備の交代に紛れて移動できますので」
「ありがとう。昨夜、そちらに捜索の手はあった?」
「はい。と言ってもエントランスより中に入ることはなく、お嬢様が助けを求めていらしたらすぐ連絡するようにと言って帰って行きました」
イルファンは窓に掛けられた毛布も取って、ふたりを誘いながら部屋の外へと足を向ける。窓の外はまだ薄暗く、東の空がほんの少し虹色に光っていた。それがカミルの髪色のようでラーニャは口元に笑みを浮かべる。
「なに笑ってんの」
「なんだかいい日になるような気がして」
「そうしてみせるよ」
差し出されたカミルの手をとる。
少し休んだからか昨夜ほどの不安はなく、力強い彼の手は頼もしい。だからきっと全て上手くいく、とラーニャは笑みを深めて軽やかに一歩踏み出した。
エスタルス侯爵のタウンハウスへ到着すると、目に涙を浮かべたレベッカがラーニャを抱きしめた。
ラーニャとカミルはそれぞれ湯浴みと着替えを済ませてから、客室へ通される。侯爵本人は昨夜から社交で出掛けたまま戻っていないらしい。
バスリー家の目の秘密や、今回の事件の対策についてを侯爵家の人間に知られるわけにはいかない。彼らを疑うという意味ではなく、彼らを守るためにだ。よって客室まで運ばれた食事はバスリー家の従者が給仕していた。
カミルが果実水を一口飲んで、ほうとため息をつく。
「生き返ったような気分だね。やっぱりラーニャはメイドの服よりドレスが似合うよ」
「お褒めいただき? 光栄です」
「じゃ、長々とここに滞在するわけにもいかないし、食いながらでもこれからのこと話そうか」
ラーニャは頷いてサラダを口にいれた。しゃりしゃりとした葉の食感が気持ちいい。
自分ではこの難局をどのように乗り越えたらいいのかわからないが、カミルは「どうにかする」と言った。その言葉ひとつでこんなにも心が楽になるのかと驚くと同時に、いつの間にか自分がカミルにそれだけの信頼を寄せていたことを実感する。
「何か、名案が? 私には何ができるでしょうか」
「まず昨日の朝、父上の部屋にいた人間を特定する。と言っても秘匿された情報ではないし黄の兄もムフレスも、もうマークしてると思う。さっきムフレスに使いを出したから、俺たちが城に着く頃には奴らから証言をとれてるはずだよ」
目を丸くしてラーニャが高い声をあげた。
カミルが悪人から話を聞くときの方法はよく知っているつもりだ。アンヌフでも獣使いと話をして戻って来たカミルは血の匂いを漂わせていたのだから。
「拷問の末の証言なんて」
「主治医は恐らく犯人じゃないって言ったろ。そっちの検査結果も出るだろうし、実行犯と主治医のふたつの証言があれば……証明はできなくとも、向こうの言い分を疑う声くらいは出るさ」
そういうものかもしれない、とラーニャは口を噤んでソテーされた魚を切り分ける。
貴族たちが、特に国を動かす立場にある者たちが犯罪に手を染めたとき、裁くために必要なのは真実だけではない。権力のバランスがどのように動くかも重要になるのだ。
今回の場合、バスリーに与するほうが得になると考える貴族は少なくないだろう。とすると、疑惑を生じさせることが優先されるのは理解できる話だ。が、嫌な予感が脳裏を走る。
魚を口に放り込んで咀嚼するラーニャに、カミルは微笑みながら続けた。
「城に戻ったら兵士が俺たちを囲むかもしれないけど、君には指一本触れさせないから安心して。君はただ自分と伯爵の無実を叫べばいい」
「……殿下はどうなさるんですか」
「薄々気づいてるんでしょ。この数百年行われず誰もが忘れているものの、廃止されないまま残ってる悪法、決闘裁判」
「駄目ですっ!」
大きな音を立ててラーニャが立ち上がる。
「陛下の許可がないとできないけど、今なら黄の兄の了承さえあればいい。この悪法が残ってるのは王位争いに必要だからだ。例えば俺がヨーネスみたいな奴に陥れられても、王子同士なら一騎打ちで殺せばいい。でも傀儡政治を目指す貴族はそうはいかないだろ、だから廃止にならなかった。貴族のための法なんだぜ」
「法があるからいいって話ではありません! 決闘だなんてそんな」
感情の行き場を求めるように、ラーニャの小さな手がテーブルクロスをくしゃりと握りしめた。静かにカミルが席を立ち、ラーニャのほうへと近づいていく。
「心配してくれんの?」
「父はもうずっと死を覚悟していました。恐らくバスリー家は歴代の王の側近として今後も維持されるはずです。なら、殿下が命を懸ける必要なんてありません」
「百歩譲って伯爵は政争に負けたと見ることもできるだろうけど、君はどうなる? そもそもこれって俺とヨーネスの戦いなんだよね。俺はヨーネスに売られた喧嘩で負けるつもりも、大事なラーニャを手放すつもりもないよ」
すぐそばまでやって来たカミルがラーニャを自分のほうへ向かせ、その背に腕を回す。ラーニャは返す言葉もないまま何度も頷いて、彼のシャツを握りしめた。




