第49話 逃避行
「わっ、えっ、ちょ」
「静かに」
緑鏡の間を出たカミルとラーニャはロープを用いて下へ降りた。カミルが侵入する際に使ったと思われるそのロープは器用に引っ張って回収し、花壇の奥へと隠す。
ふたりの頭上、緑鏡の間からはザインが衛兵たちの追求をのらりくらりと躱す声が漏れ聞こえていた。
「ひとまず城を出るしかないか……いって……っ!」
ため息交じりに呟くカミルの頭上に、バサリと音を立てて固いものが落ちてきた。どうにか大きな声を出さぬよう耐えて拾い上げたそれはアリフ・サッバーグの本であった。
「我が兄ながら律儀なことだねぇ。よし、行こう」
「ですね」
カミルはラーニャを抱えたまま闇の中を走る。捜索の手が城の全域に少しずつ広がっていくのを感じながら厩舎の脇を通り抜け、森へ入った。
ふたりにとって森はまだダウワースの悲劇を生々しく思い出す場所だ。言葉を発することなく木々に紛れて進んで行く。
立ち並ぶ木々の中から開けた場所へとふたりが出たとき、「いた!」との声とともに走り寄る音があった。ランタンの灯りがふたりを照らす。
「ご無事でよかった。お疲れ様でございました、お嬢様……と、殿下」
自分の顔が見えやすいようにとランタンを掲げて見せた男は、バスリー家に仕えるフットマンのイルファンであった。ラーニャがほっと安堵の息をつき、カミルの腕の中から出ようと試みる。
「まぁイルファン、迎えに来てくれたの? ありがとう。もう怪我はいいのね」
「ふん。バスリーの従者は礼儀がなってない」
「下位の者の礼儀なんていつも気になさらないのに、どうしてこのタイミングでそんなことおっしゃるんですか。ていうか降ろしてください」
もがくラーニャを抱きかかえたまま、カミルはぶすっと顔をそむけた。イルファンはそれを無視して東の方角を指し示す。
「向こうに馬車を待たせてあります。小さく貧相な馬車ですが状況が状況ですのでご容赦ください。どうぞこちらへ」
歩き出したイルファンの後ろに続きながら、カミルが眉を顰めた。ラーニャは降ろしてもらうことをすでに諦めている。
「あいつ、俺のこと無視したんだけど」
「無視されるような振る舞いをしたからでは?」
「王子なのに!」
それはラーニャも無視した。
案内された先にあったのは小型の辻馬車で座席は幌付きの狭いものである。御者席は座席の後方にあり、御者と思われる男はその傍で酒を煽っていた。カミルが目を丸くする。
「酒飲んでるぞ」
「ええ、いいんです。あれを渡したのはわたしですから」
イルファンはそう言って御者の元へ向かい、いくらかの金を渡した。御者は上機嫌でその場を離れ、歩き去る。
「用心は重ねるべきですから、おふたりをどこへ案内したか知られないよう馬車そのものを借りることにしたのです。おふたりを降ろした後で、馬車は返しに行きます」
カミルの腕からやっと解放されたラーニャが座席へ。カミルも続き、馬車がゆっくりと動き出した。カミルは座席背後の小さな戸口からイルファンに問いかける。
「なぜあの場所が?」
「恐らくあの辺りに出て来るはずだと侯爵様が」
「ああ……あの人は東部の番人だもんね、それくらいの予想はつくか。てことは俺が戻ってるのもバレてた?」
ラーニャの母方の伯父であり東側の国境に領地を持つエスタルス侯爵。国境線はそう長くないものの、彼の先祖が侯爵としてこの地を拝領して以降侵攻されたことは一度としてなく、軍略家として名高い家門であった。
今はラーニャの兄とバスリーの一部の侍従がエスタルス侯爵家のタウンハウスで世話になっているはずだ。
「ああ、いえ、ムフレス様によって支援要請がございました。ザイン殿下がお嬢様をお助けくださるという連絡と、失敗した場合に救助の手が欲しいという依頼です」
「なるほど、だから事前に待機できたってワケだな」
「ムフレスも今は監視下にあるでしょうに……」
カミルの配下である以上ムフレスを拘束することはないが、彼はカミル不在の間ラーニャの傍から離れなかったため、事件に関与した可能性を疑われているのである。
無言のまま馬車が走り、到着した先は改築工事中のバスリーの屋敷であった。
「人の目がなく、いざという時に逃げ道を確保できる場所です。警備もバスリーおよびエスタルス侯爵の手の者が行っていますから、逃がすくらいの時間的余裕は作れるはずです」
「何から何までありがとう、イルファン」
「またお嬢様のお出掛けの際に供回りとしてお連れいただける日を願っております」
イルファンは御者席の足元から紙袋を取って差し出し、馬車を繰って屋敷を去って行った。カミルはそれを見送りながら舌打ちをする。
「礼を言うタイミング失っちまったな」
「あら、そのつもりがあったのですか」
「一応言っておくけど、そこまで人間性堕ちてないからね」
ラーニャの私室だった部屋へ向かうと、毛布が二枚と燭台がひとつ用意されていた。毛布一枚は窓に掛け、明かりをつける。紙袋の中にはパンに肉と野菜を挟んだ軽食と、水のボトルが入っていた。
もう一枚の毛布をふたりで分け合い、パンを食べる。
「おいし……」
冷めてしまったはずのパンが温かく感じられる。伸びてきたカミルの指が目尻を拭って、ラーニャは自分が泣いていたことを知った。
「ラーニャを巻き込んでばっかりで、いいとこねぇなぁ俺」
「ですね」
「悪ぃ。でも絶対どうにかするから」
「わかってます」
抱きしめようとしたカミルを、ラーニャは食べづらいと言って押しやる。
「そういう雰囲気だったろ、いまの。……で、さっきの話の続きだけどさ」
そう言いながらカミルは片手でパンに手を伸ばし、もう一方の手で本を差し出した。




