第44話 青天の霹靂
チェスの経験はあるかとの問いにラーニャが首肯すると、クテブは白と黒のポーンをひとつずつヨーネスに差し出した。ヨーネスはそれを両の手にそれぞれ握る。
チェスでは白の駒が先手だ。一方が白黒のポーンを相手に見えないように握り、対戦者がどちらか選ぶ。その選んだほうの色で先行と後攻を決めるのが一般的なやり方である。
ヨーネスはポーンを握った拳を差し出して口を開く。
「今ワタシは両手の中に色違いのポーンを握っています。普通ならあなたにどちらか好きなほうを選んでもらうんですが」
言いながら、手を開いて黒をラーニャのほうへと差し出した。
「ワタシはチェスが苦手なんです。だから有利な先手、白をもらいますね」
「承知しました」
「へぇ。いいですね、何事にも動じないのはバスリー家の特性ですか?」
探るような目。ヨーネスは今、ラーニャの意外な一面を見ようとしているらしい。
ラーニャは背筋を伸ばして曖昧に笑った。
「どうでしょう。確かに私どもは視界が悪いので、状況や表情の変化に疎く適切に気持ちをお伝えするのは苦手としています」
と言い繕って、相手をわざと怒らせることもしばしばある。それが「空気の読めないバスリー家は付き合いづらい」という印象を周囲に与え、深い人付き合いをせずにいられるという効果をもたらすのだ。
クテブがチェスボードに駒を並べ、ゲームが始まる。ヨーネスが早速白の駒を動かしながら、その手をラーニャへと伝えた。
「d二のポーンをd四へ」
d列、つまりクイーンの前にあるポーンを四行目へ移動させたという意味だ。
「バスリー嬢の駒はオレが動かそう。指示をくれたまえ」
「ではd五へお願いします」
普通、棋譜を記録する際にポーンだけはポーンであることをいちいち記さない。クテブは「d五」という指示に正しく黒のポーンを動かした。
このようにしてヨーネスとラーニャのゲームが進んでいく。
「e三。ワタシはね、カミル兄上が羨ましいんです」
「羨ましい、ですか? Bd六お願いします」
「なんでも持ってるでしょう。容姿、実力、勇気、国民からの人気と、それに母の愛と信頼も。持つ者特有の余裕が羨ましくて――さて、これはどうしようかなぁ、うーんNf三」
気分を良くするような言葉を欲しがっている様子はない。ラーニャはそうですかと頷いて次の手を指した。
またいくつかゲームが進み、ヨーネスが笑みを浮かべる。
「んー、dxc五。……なんでも持っている人間が、例えば大切にしているものを失うとどんな顔をすると思いますか?」
x、c五にあった駒をとってそこへ移動するという意味である。いま白のポーンによって黒のポーンが取られた。
「え?」
「例えば家族、例えば領地。または、そうですねぇ、侍女とか」
ラーニャの肩が震え、フェルハートが身じろぎした。
息を吸って吐いて、笑みを張り付ける。
「残念ながら、私は皆さまが特定の感情のときにどのような表情になるのかわからないのです。でもきっと、大切なものを失ったのならとても悲しまれると思いますわ。……Rxc五でお願いします」
「なるほど、なるほど。それは確かにその通りですね」
ヨーネスは「なるほどなぁ」と繰り返しながら、駒を繰った。
クテブは最初からずっと表情を変えることがなく、ラーニャにとってはヨーネスよりも恐ろしい存在になりつつある。当初は曲がったことの嫌いな正義感の強い人物だと思ったが……今は何を考えているのか、何を目的としているのかがいまいちわからない。
ラーニャの怯えを感じ取ったのか、それともたまたまなのか、ヨーネスがクテブの肩を叩く。
「その点、クテブは分かりやすくていいですよ」
「分かりやすい、と言いますと」
「正義が服を着て歩いてるような奴です。例えば今なんの非もないあなたにワタシが剣を向けたら、クテブはきっと激怒するでしょうね。Bh六です。どうですワタシもなかなかやるでしょう」
盤面では黒のキングの前にいるポーンを、白のビショップおよびクイーンが攻撃している。ビショップをとればチェックメイト、ポーンを逃がせば黒のルークがとられる、というような少々面倒な局面であった。
が、ラーニャにとってチェスは頭脳ゲームでもなんでもない。過去に国内で発表された全ての対戦記録を覚えているのだから、その中から目の前の盤面と同じ棋譜を参照して勝ち筋を辿るだけの作業だ。
「Qxe五をお願いします。正義感が強いのは素晴らしいことですね」
「あー、正義感と言えば!」
突然目を輝かせたヨーネスの声が大きくなる。
「ちゃんとコールしてやれ」
「あっ。そうでした、Bf四です。すみません。面白い話を思い出してしまって」
「面白い話?」
ラーニャが首を傾げるも、ヨーネスはすぐには話をしなかった。というよりも、口にしようとしても思い出し笑いが勝って言葉にならないという様子である。
その間、クテブが白の手を伝える役を負う。
しばらくしてひーひーと苦しそうな呼吸をしながら、ヨーネスがようやくまともに言葉を発した。
「あー、すみません。ひとりで笑ってしまって。んっふ。Qa三で。いやぁ、だってダウワース兄上ってルティを守って死んだでしょう。ああいうのを正義感って言うんですかね?」
「……Rxc二お願いします」
なぜここまで笑えるのか、ラーニャには理解ができない。表情を変えないよう注意しつつ、駒を進める。
「ダウワース兄上って単純だからあんまり興味なかったんですが、さいごのさいごでワタシの予想をあんなにも超えてくれるなんて! って、うわーこれ困りましたね。Rd四かな」
「ヨーネス、その言い方はあらぬ誤解を招く。ダウワース兄さまの件は事故だったのだから、下手なことを言うな」
きゃははと大喜びするヨーネスはザインの言葉を借りればクソ野郎に違いない。だがやはり、クテブの思考はわからないままであった。
「Qxd四を」
声が震えぬよう気を付けるとどうしても音が低くなってしまうため、言葉少なに駒を進める。
「あー、これは」
ヨーネスがそう呟いたとき、扉が強く叩かれて城の従者が飛び込んで来た。
「ごっ、ご報告申し上げます! 国王陛下の容体が急変、毒物による暗殺未遂とみられ、バスリー伯爵の身柄が拘束されましたっ」
「なんですってっ?」
ラーニャが慌てて立ち上がり扉を振り返ると、従者の背後から多くの近衛兵が室内へ入って来る様子が見えた。
「いやぁ、投了です。ずいぶん前から勝ち筋が見えなくて、もがいてはみたんですけどね。かなわないなぁ」
ヨーネスの朗らかな声が室内に響いた。




