第43話 対の星
低く雲が立ち込める朝、ラーニャは窓からぼんやりと空を眺めていた。ザインとの謎の乗馬からどれだけ日が経っただろうか。日々は不気味なほど平和に過ぎ、カミルからは少し前に王都への帰路につく旨の手紙が届いていた。
「そろそろ戻って来てもいい頃だと思うんだけど」
「カミル殿下ですか? 無事にお帰りになるといいですね」
呟いたラーニャに頷いて見せたのはレベッカだ。カミルが北方へ旅立ってすぐの頃は、ヨーネスが何をするかわからないため彼女を北宮へ呼ぶのを躊躇っていた。
しかしザインの侍女との茶会も頻繁に行うようになり、どうしても手伝いのいるドレスを着る機会が増えてしまったため呼ばざるを得なかったのだ。
今日も今日とて、リーン妃の話し相手として花燭の間を訪ねる予定がある。その後で王城に滞在する父ウィサムの顔を見に行くのが恒例だ。
「ほんとにね。こちらは呆気にとられるくらい何もなかったし、杞憂だったねって笑いたいわ」
「やっぱり北方への視察が早まったのも、たまたまだったんでしょうね」
「うん……」
レベッカに手を引かれて鏡の前に立ち、ドレスを着替えていく。
カミルの北方視察は正妃の意向によって決まったものだ。そして正妃にそうするよう進言したのが第五王子ヨーネスであり、何か裏があるはずだと考えるのが普通。
この平和な日々は恐らく、ザインが北宮を仮宿としたことで計画がうまく運ばなかったのだろうとラーニャは自分を納得させた。
「さあできましたよ。あとはこれですね」
レベッカがラーニャの背をポンと叩いたあとで、真珠のネックレスをつけた。鏡の中で虹色に光る真珠を指で転がし、意識的に笑顔を浮かべる。
「目を覆ってなかったわ」
「あら、そうでしたね」
「でももうひとりで大丈夫、ありがとう」
「はい、ではお気を付けて行ってらっしゃいませ」
レベッカは深く一礼して部屋を出て行った。なんの予定もない日なら本を読む振りをしながら世間話に興じるのだが、今日はそうもいかない。
黒の薄いレースで目元を覆い、ラーニャは再び窓から外を覗く。曇り空をレース越しに見ると一層気持ちが沈む気がする。言い知れぬ不安を腹に感じながら部屋を出た。
部屋の前で待っていたのは護衛のフェルハートとムフレスだ。
「おはようございます、ラーニャ嬢」
「あら、来たって言ってくれたらよかったのに。待たせました?」
「いえ、いま来たところですから」
フェルハートがにやりと笑う。どうやらムフレスは嘘をついたようだと気づいたが、ラーニャはそっとしておくことにした。
リーン妃とのお茶会を終え、花燭の間を出る。ウィサムの部屋に到着したところで、ムフレスがラーニャを呼び止めた。
「アンヌフの立て直しでいくつか報告や申請の必要なものがあるので、自分は一旦ここで。終わり次第――」
「あ、いえ。どれくらい父と話をするかわからないので、ムフレスはご自分の用事が済んだらそのまま北宮へ戻ってもらって結構です」
一瞬だけ逡巡する様子を見せたムフレスだったが、ラーニャの傍らに控えるフェルハートと目を合わせてから頷いた。
カミルに何度も念を押されたせいか、ムフレスは律儀にもラーニャが北宮から離れるときには必ずついて回っている。そのせいで本来の業務を進める時間が減っているのだ。フェルハートもいるし父と話をしたら真っ直ぐ北宮へ戻るのだから問題ないと、ラーニャはムフレスを見送った。
部屋の扉をノックして、中から返って来た声に聞き覚えがあって首を傾げる。いつもウィサムの部屋で雑用をする使用人とは違う声だ。どこで聞いた声だったかと考えながら、フェルハートが扉を開けるのをぼんやりと眺めた。
部屋の中にウィサムはおらず、若い男が二人ラーニャを見ている。先にフェルハートが「えっ」と声をあげていなければ、驚きのあまりラーニャのほうが息を飲んでしまうところであった。
「なにか」
声が震えないよう細心の注意を払ってフェルハートに問う。彼はハッとした様子で口を開いた。
「しっ、失礼しました。室内には第五王子ヨーネス殿下および第六王子クテブ殿下がおわします。バスリー伯爵はご不在の様子」
「まぁ!」
ラーニャは足早に室内へと入り、部屋の中心に向かって淑女の礼をとる。
「ツハール王国の空に輝く緑と青の対の星、花の香りの素晴らしい日でございます。まさかこのような場所でお目にかかるとは」
「こんにちは、バスリー伯爵令嬢。顔を上げてください」
「丁寧な挨拶感謝する。バスリー嬢と会うのは久しぶりだが、最初の印象通り好人物だな」
穏やかな口調がヨーネス、それより少しだけ低い声で固い話し方をするのがクテブだ。クテブに会うのは北方に領地を持つ侯爵に言いがかりをつけられたとき以来か。
声を聞いてやっとラーニャはふたりのほうへと身体を向けた。
「父は……」
「ああ、伯爵ならさっき父上に呼ばれて出て行きましたよ」
「さようでございますか」
「いつ頃戻るかはわからない。我々はあなたを待っていたのだ」
「私を、ですか」
こちらへとクテブに誘われ、ラーニャはフェルハートに手を引かれながら二人の元へと向かう。その間にヨーネスがメイドを呼び、茶の準備が進められた。
どうぞと促されるままにソファーへ掛ける。ローテーブルの上にはチェスボードがあり、それを挟んで対面にくつろぐ双子が全く同じタイミングで目を細めた。
「チェスって、やったことあります?」
ヨーネスが言い、クテブが駒の入ったケースを開ける。




