第42話 内密な話
ラーニャがムフレスの案内で向かった先は乗馬スペースであった。騎馬隊が儀礼用の動きを練習したり、王族が自由に馬を繰って汗を流したりする場所だ。森にも通じていて、早駆けをして遊んだりするのだと聞く。
ザインはすでにそこにいて、乗馬用の衣装に身を包んでいた。
「少し時間ができたから一緒に気分転換でもどうかと思ってね」
「殿下の侍女がおふたり、いらっしゃってましたが」
「いま僕が気にかけてやるべきはラーニャ嬢だろ」
ザインが片手をあげると、彼の護衛が馬を引き連れてやって来た。ぽくりぽくりと可愛らしい足音がする。
「でも私、馬は」
「なに、この僕が一緒ならなんの問題もない。乗馬は僕が最も得意とするもののうちの一つだ。感謝するといい」
ここへ連れて来たということは、ムフレスはこうなることをわかっていたはずである。
なぜ止めなかったのかと、横に控えているはずのムフレスの足をこっそり蹴ろうとして、しかしそこには誰もいなかった。ラーニャの足はドレスのスカートの下で空を切り、真っ直ぐだった彼女の姿勢が傾く。
「おっと」
ラーニャの腰に手をまわし、それを支えたのはザインであった。
「ありがとうございます……?」
「以前見たダンスは素晴らしかったから運動神経は悪くないと思ったんだけど、勘違いだったか。まぁ僕がついていればそれくらい些末な問題だ」
「きゃっ」
イメージとは裏腹に安定感のあるザインの腕がラーニャを馬の背に乗せ、その後ろに彼も飛び乗って手綱を握った。
ムフレスはすでに馬に乗っている。レースの奥から睨みつけられているとは思いもしない呑気な顔が、ラーニャを一層腹立たせた。
とにかく、目が見えていることを気取られないようにしなければならない。以前カミルに注意されたのを思い出して、馬の首にしがみついた。馬に乗れない者はそうすることがあると、乗馬の指南書にあったからだ。
「そんなんじゃ馬に振り回される。ほら顔をあげて僕にすべてを預けなよ、仔猫ちゃん」
腰に回された手がラーニャの身体を引き上げた。ザインは手綱を片手で持ち直し、ラーニャの身体を支えたまま馬を歩かせる。
「わ、」
上下の揺れに驚いた風を装って、転がるようにザインの胸に背を預けた。初心者の振りも大事だが、身の安全を確保するほうがもっと大事だ。
「いいね、そのままの姿勢でまずはここを一周しよう。僕の腕を掴んでてもいいし、たてがみを握っててもいい」
ぽっくりぽっくりと馬が歩く。
ラーニャは片手でたてがみを、片手でザインの腕を掴んだ。ザインが顔を近づけて耳元で囁く。
「この経験の全てを、君は生涯忘れないって理解で合ってる?」
「ええ、はい」
「かつて、こんなふうに馬に乗ったことは?」
「幼い頃に」
嘘はバスリーが記憶の次に得意とすることだ。
耳元でザインがふっと笑った気配がした。
「じゃあ、今日は君にとって初めての体験になるような乗馬をしよう」
身体に回されたザインの腕に力が入る。彼の足が馬の腹を蹴ったと気づいたと同時に、馬が走り出した。背後から「殿下!」とムフレスの声が追いかけて来る。馬はあっという間に森の中へと入って行った。
足音が聞こえるためムフレスがしっかりついて来ているのはわかるが、そこそこの距離があるようだ。
「仔猫ちゃんとふたりで話がしたくてね」
風と蹄の音に負けないくらいの声量でザインが言う。
もはや馬に乗りなれない演技どころではない。舌打ちしたい気持ちを抑えてラーニャは言葉を返した。
「な、なんでしょうか」
「無理に喋るな、舌を噛んでしまう。大した話じゃないから君はただ聞いていればいい。……僕はこの国を壊すよ」
「はぁ?」
ラーニャの不敬な相槌にザインは「ぶほ」と吹き出した。が、気を悪くした様子はなく、そのまま話し続ける。
「スハイブは王としては物足りないけど、そこそこの善政を敷いたと思う。ダウワースは馬鹿だけど、国の英雄だ。ふたりとも失っていい人間じゃなかった」
「ですが」
「そう。どっちも殺すつもりだった。二人ともヨーネスがやったけどね。矛盾してると思うだろ」
「はい」
「ふたりとも、国を壊しはしないからだ。僕は王位争いのルールをクソだと思ってる。実際クソだ。有能な王子をふたりも死なせた」
ザインはラーニャの理解を待つように一呼吸おいて、再び口を開く。だがその声音は苦し気で、耳を済ませなければ風切り音に掻き消されてしまいそうだった。
「母上は一人になるといつも泣くか怒るかだった。そりゃそうさ、父上は母上とまともに目を合わせたことがない。父上の関心は常にリーン妃にあったんだからね」
「でもリーン妃は」
「多くを望まないんだろ、知ってるさ。彼女もある意味で被害者だ。自己主張せずひっそり暮らしてる。今あの人は花燭の間に引きこもってるけど、父の妻となる前はお茶会を大層好んだらしい」
知っていたのかと驚き、目を見張る。
つい首だけで振り返って見上げたザインの瞳は、レース越しにもわかる国王譲りのスカイブルーで、しかしまるで捨てられた犬のように悲しそうに揺れていた。
そして、ラーニャは理解した。彼が壊したいのはこの国の伝統なのだと。ハーレム制度に始まるこれらの伝統は、もう時代にそぐわなくなっているのだ。
「ラーニャ嬢」
ザインは自身を見上げるラーニャの頬に口元を寄せた。彼の顎がラーニャの唇をかする。
「カミルは君の魅力にどこまで気づいているだろうね?」
「魅力なんて」
「カミルとキスをしたことは? ない? では、どんな感触で、どんな味がして、どんな気持ちになるか。僕がいま教えてしまったら? 男はいつだって女の初めてになりたいものだけど、すべてを覚え続ける君はそのプライドを最も効果的にくすぐるよね」
顎を引いたラーニャの鼻の頭に、ザインの唇が触れた。ふと彼が浮かべた笑みは、どこまでが本気でどこから冗談なのかをわかりづらくさせる。
「だから僕は君が欲しかった。でも無理なんだ。側妃をとるつもりがないからね」
ザインが背を伸ばし、ラーニャは小さく息を吐いた。
次第に馬のスピードが落ちる。流れる景色がゆっくりとなって、背後から追うムフレスの馬も近づいて来たようだ。
「次の正妃はもう決まってるだろ、貴族たちが決めた政治上の妻がさ。幸いにして何度か話したことがある令嬢だけど、まぁ普通の子だ。努力すれば信頼や友情は育めると思う。でも、そばに君がいたらきっと無理だ」




