第37話 信頼の対価
カミルが北宮へと戻って来たのは夜半になってからだった。
森に騎馬を引き連れ現れたのはムフレスで、ザインから警告があったのだと言う。おかげでダウワースをすぐに城へと連れて戻ることができた。しかし、ずっと付き添っていたカミルの表情は暗い。
「橙は今夜を越えられるかわかんないって」
彼の部屋で着替えを手伝っていたラーニャは、ため息交じりのカミルの言葉に小さく頷くことしかできなかった。
その後ふたりはカミルの提案でルトフィーユの部屋へと向かう。
ルトフィーユはダウワースの背中に刺さる矢にショックを受けたのか、食事もとらず部屋にこもったままだ。あの矢が自身を狙ったものだと理解したか否かは、ラーニャには判断がつかないが。
疲れた表情のルトフィーユはカミルから「なぜ森に行ったのか」と問われ、ためらいがちに次第を語った。それは森の中でラーニャたちが立てた仮説とそう遠くはなかった。
馴染みの画商が、画材屋にもツテがあると言って持ってきたのがキルスティ・ウォードから作った青の絵の具だったらしい。ただし金銭による売買ではなく、キルスティ・ウォードそのものとの交換でのみ譲ってやるという話をされたとのこと。
「今はキルスティ・ウォードを栽培する人を探しているんだって。だから絵の具はサンプルだし売ってあげないって言われたんだ。でも、ウォードと交換ならいいよって。それならまたすぐにサンプルを作れるからって」
ルトフィーユはそう言ったきり口を噤んでしまった。
「もう遅いから休め。話してくれてありがとうな」
カミルが立ち上がり、ラーニャもそれに続く。
俯いたままのルトフィーユは心なしかいつもより小さく見える。しかし一方で、誰かが傍にいることを拒絶するような空気をまとっていた。
部屋を出たとき、大聖堂の鐘が鳴った。ダウワースが息を引き取ったのだ。
背後で陶器が乱暴に扱われる音、そして椅子のような木製の何かが倒れる音が響き、すぐに静かになった。あとから微かに聞こえてきたのはすすり泣く声だ。
カミルがラーニャの肩を抱く。
「よーし、今夜は飲もう! ラーニャにも付き合ってもらうからねー」
「ご命令とあらば」
「めっちゃ命令だよ。そうと決まれば、俺が持ってる中でいちばん高いの開けるかー」
通りかかったメイドに軽食の用意を言いつけ、カミルはラーニャを連れて部屋へと戻った。
鼻歌をうたいながら棚から酒を取るカミルに、ラーニャはバスリー家襲撃の夜を思い出す。襲撃前に飲んでいた酒ではなく、城に戻ってから飲んだ酒だ。
いつもは味わうように丁寧に飲むカミルが、その時はストレートでぐいぐいと喉に流し込んでいた。きっと今夜もそうやって飲むのだろう。また、今までに何度こんな飲み方をして来たのだろうか。
ソファーに並んで座り、琥珀色の液体が注がれた背の低いグラスを互いにぶつけて空にする。きっとカミルと同じペースは無理だろうが、最初の一杯くらいは付き合いたいのだ。
メイドが軽食をテーブルへ並べて出て行った。
会話もないまま飲むうちに、ラーニャはなんとなく墓地での会話を思い出す。
ダウワースが短気で暴力的な人間であることは間違いないが、墓地では兄スハイブを尊敬し弟たちを大切にしているのが見てとれた。言葉にこそしなかったが、疑心暗鬼になってダウワースの言葉や行動を疑った自分を恥じている。
「王位争いなんてなければいいのに」
呟いた言葉にカミルも頷く。
「まぁねぇ。だが古くから続く慣習はそう簡単にはなくならないよ」
そうやって強く賢い王が選び出され、国がより豊かになると誰もが信じている。この因習に疑問を持つ者でさえ、一定の利があると心のどこかで思っているからなくならないのだ。
だがそれは我こそが王に相応しいと考える者同士が争うから良いのであって、他者を傷つけて楽しむような者がいたら破綻するというのに。
「早く、アンヌフでゆっくりできたらいいですね。ルトフィーユ殿下も一緒に」
この馬鹿げた王位争いが終われば、アンヌフに腰を下ろせるはずだ。本当ならリーン妃も連れて行きたいところだろうが、さすがにそうもいくまい。
カミルがふふと笑う。
「陛下に早く死んでほしいって言ってるようなモンだよ」
「いや、そういうわけじゃ……っ」
「でも同感だ」
カミルはグラスを置いてラーニャを抱きしめた。
そんなはずはないのになぜかカミルが震えているような気がして、ラーニャは彼の背を撫でる。
「ダウワースがどうなろうと知ったこっちゃなかった。それが王位争いってもんだからね。でも、俺たちのために命を張られたんじゃ話が変わるんだよ」
「気持ちはお察しします」
「さっきダウワースの奴が言ってたんだ、『信頼しなかったから兄貴を死なせた。これはお前の信頼がほしくてやったことだから気にするな』って」
ダウワースは謀略に嵌められたと言っていたが、スハイブをもっと信頼していれば違う結末もあり得たのは確かだ。彼は周囲の誰とも信頼関係を築けていなかったと気づいたのだろう。
「カミル殿下に無事を祈ってもらって、橙の星は嬉しかったと思います」
「……まずは画商から話を聞く」
「私も連れて行ってください。バスリーの力を存分にお使いいただきたいのです」
「ああ、もちろん」
ラーニャを抱きしめるカミルの腕の力が強まった。




